三つのお願い

  夢の中に、神々が現れました。 そしてこう言われました。
「どんなことでもよいから、三つのお願いをきいてあげよう、君は何を望むかね?」
 
 お願いを考えているうちに、目が覚めました。
 
 何らかのグループで、お互いをもっと知る為に、ゲームとして「三つのお願い」を聞くこともできます。無記名で、三つのお願いをメモに書いてもらい、進行役が読みあげながら、その三つのお願いは誰のお願いなのかをメンバーで推量する、という具合に。
 
 禅の考案のように、このお願いを捉えることもできます。
 「君は色々な思いを起こし、行動しているが、究極のところ何を求めているのかね?自分で気が付いているかな? 刺激に対して、ただ反射しているだけではないかな? 習慣で生きていないか? 簡単に答えを出さずに、じっくり考えてご覧。」
 
 私達は、幼い頃から、はっきりした人生の目標を持ち、達成するようにと教育されてきました。

 しかし、私は、「大きくなったら、何になりたいの?」と質問してくる大人が好きになれませんでした。私は、そのような質問は、質問の仕方がおかしいと思う子どもでした。どのような職業に就くのかと尋ねる前に、この世の中全体の在り方をどう思うかを問うのが先ではないか、と。

 世の中の有り様や歴史を考えたうえで、さて君はどう生きようとしているのか、と問いかけてくれる大人を望んでいました。
 しかし、多くの大人は、どのような職業に就こうとしているのか、どのようにしてお金を稼ごうと思っているのか、というレベルで尋ねるのでした。

 その後の青春時代のドロップアウト、放浪生活、サラリーマン生活や漁師生活、のことはさておき、改めて、自分自身に問うています。
「自分が心の底から本当に望んでいることは何か?」

 そうやって問い直して見ると、自分ははっきりした具体的な目標を持って生きてきたつもりだけど、あやふやになってきます。
 実現不可能と思われることを、可能性不可能性を考えることなく、闇雲に目標としていたり、行き当たりばったりなのに、自分では目標を持っているつもりだったリします。
 
 ある種の心理学者がいうような、私たちの行動は、刺激に対する反応でしかないとは思いませんが、自己があって、その自己が実現するような捉え方とか、目標とかは、実は妄想・仮構でないかと思ったりします。
 
 夢の中で考えていた私の三つの願いは、このようなものでした。
「私はもっともっとしりたい。そして、しったことを忘れたい。それを繰り返したい。」
欲深いですね。知るには、識るという意味や領るという意味があります。
 
ゆっくりと歩きながら、空を見上げ、おもうのです。
ここは宇宙の果て、そして始まりの場所。

今夜は、我が家で、東北・関東地方から避難されてきている人達を交えて、今後のことを話し合います。