ありがとう瞑想

 「ありがとう」ということばを使う瞑想、修養法が色々あります。
 
 身近な実践例として知っているのが、ヒューレンらによるホ・オポノポノ です。

ヒューレンによるホ・オポノポノは、自らの記憶に向けて、「どの記憶が問題を引き起こしているのだろうか」と問いかけた後、「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」の言葉を繰り返します。

 町内に、不景気に関わらず繁盛しているお店があって、そこのオーナーは静かにこのヒューレンによるホ・オポノポノを実践されています。

 何事についてもいえることですが、万人向きかというとそうでもなく、人によって、あうあわないがあると思います。また出会う時期によっても、あうときもあれば、あわないときもあります。

 その方の場合、傍から見ていると、ホ・オポノポノによって、現世御利益があったというよりは、もともとこれまでの人生の中で集積してきた徳があって、一つの実践のかたちになったのが、ホ・オポノポノであるように感じます。
 
 「ありがとう」という言葉のおおよその使い方は、日本人なら誰でも知っていると思います。
 でも、実際よく観察してみると、一人一人微妙に使い方や込められている意味が違います。
 
微妙な違いがあるとしても
 一人で、ありがとうと言い続けると、確かにある変化が現れます。

 泥水をコップで掬うと、濁っていますが、そっとしておくと、泥が沈澱し、上の方から澄んできます。 そのように泥を沈殿させる作用として、「ありがとう」を呪文やマントラのようにつぶやき続けるという方法があります。止観瞑想でいうと、止の瞑想になるでしょう。
 
 この方法は、入れものの容量が深くて大きいと、外から揺らされても、泥がわき立つことがないのですが、容量が少ないコップだと、言い続けていないと、動揺するような刺激で、また濁ってしまったりします。

 となると、ありがとうの観の瞑想が大切になってきます。
 
 「ありがとうと言い続けていると、有り難いことばかりが起こって、有り難くないことは起こらなくなる」と言って、ありがとうということを勧める人がいて、その勧誘に従って始める人がいます。

 しかし、この説明は、導入としてはありえるかもしれませんが、不十分なように思っています。ありがとうと言い続けていると、有り難くないことは起こらないかというと、そんなことはなくて、起こるのは起こるのだけど、自分が有り難くないことと判断しなくなることによって、有り難くないことでなくなるのだと思います。
 
 
 ありがとうとは「有り難い」ということです。
 世の中に有り難いことと有り難くないことがあるでしょうか?
 全ての出来事は、全体性の中に生まれる一回性の出来事であって、同じことなどある訳ではない、という思いにたどり着くと、全てが、一瞬一瞬が「有り難い」ことです。
 
現世御利益を求めつつできる修養法ではないように思います。

 
 I’m sorry. を普通、 ごめんなさい と訳したりしますが、
 I’m sorry. には、日本語のごめんなさいという言葉より幅広いニュアンスがあります。
 
 同じように、「ありがとう」には 英語の Thank you より深いニュアンスがあるとおもっています。