原子力発電所はどこからきて、どこへ行くのか?

 私の仕事場には、ゴーギャンの絵のレプリカをかけています。
絵のテーマは、「私達はどこから来て、どこへいくのか?」です。
   
 この絵のテーマを、わたしは、
 「原子力発電所はどこから来てどこへ行くのか?」と置き換えることができると思っています。

 原子力発電所は、私たちの自我の集積であり、欲望の集積であると思うからです。
 
 私たちの自我や欲望はどこから来たのか?
 それは、「ことば」から生まれたと思っています。
 
 ネアンデルタール人が3万年前に滅びず、現在に生きているとしたら、ネアンデルタール人原発を作っていないと思っています。
 
 「最大多数の最大幸福」とか「多数決」ということばがあります。
 この言葉は、私たちの欲望をまず肯定し、欲望追求も肯定するところから始まっていると思います。
  
 自然が作ったものや、人間が加工した現物を、私たちが「所有」し、それを分配消費していた時、「最大」には限界があったように思います。
 どんなにお金持ちであろうと、権力者であろうと、その胃袋の大きさは、貧しい人と変わりません。加工しようが、保存しようが、食べずにいると、キャビアは必ず腐ります。
  
 しかしことばの仮構により「通貨」というものを生み出し、「利子」というものを生み出した時、まるで、無限大の資産と最大幸福を持てるかのように思いちがいをしてしまいました。
 「より多くの富を持つことが救いの証明だ」などと勘違いしました。
 金貨だって摩滅しますのに、「利子」は膨らむ一方です。

 国家は、見えないところで利子を膨らませ、自治体もまた利子を膨らませます。
 
 利子を膨らませる経済活動とともに、クリーンエネルギーだと言って、その生み出す熱の3分の2を、原子力発電所は海へ捨ててきました。
 いまは、その海の水で、炉を冷やし、電気ではなく、核燃料の熱で塩を作りました。
  
 「自我」という言葉で、世界と自我との間に境界を作り、やがて死すべき寂しい存在と捉えた時、満たされない思いは、最大欲望の最大充足、現世御利益という最大幸福を求めるようになりました。
  
 「完全」「完成」「満足」という言葉によって「不完全」「不満足」という言葉が生まれました。
  
  
  
 「成し遂げなくていい」
 「私たちは海から生まれ、今も私たちの中に海がある」
  
 こういった言葉が交わされないうちは、
「劣化し腐っていくお金を使う」という考えが持てないうちは、
まだまだ、拡散という言葉などを使い、放射能を母なる海へ流すようにおもいます。
 
 逢ふ事も涙に浮かぶ我が身には死なぬ薬も何にかはせん