現界と異界が今も共にあるところ熊野

 熊野では、外海がそのまま断崖絶壁の磯に繋がっている風景を、所々で見かけます。
 磯釣りの人々は、岬の端に出る為に、そのような磯を通らず、迂回して山道を通ったりしますが、最後はどうしても断崖をよじ登らないと行けない場所も多くあります。
 
 私は、中学生の頃まで、魚を釣る為でなく、ただ坐って海を観る為に、崖を攀じ登って道なき道を行きました。
 
 そういう危険な場所でなくとも、磯と磯の間に砂利浜があったりします。
 
 その浜は、1000年、2000年、縄文の時代まで遡っても変わっていない浜だと思います。
 
 その浜の陸側に、堤防があり、その内側に鉄道や国道が通り、電車や自動車が走ります。
 
 現代界と古代異界が同時にある、それが熊野の風景のひとつです。
 (と言っても同時にあるという感覚を誰もが持っているわけではありません。
 異界とは、現界から見た言い方であり、全体論から言えば、現界の方が異界です。)
 
 そういった風景をごく当たり前の風景としてそこで遊び、育ってきたわけですが、今になって、私の精神風土に大きな影響を与えていることを感じています。
 
 その一つが言語観です。
 普通、言語と言えば、音声言語、聴覚言語のことをいいます。
 視覚言語にしても、また指点字などでいう触覚言語も、基礎は聴覚言語においています。
 
 つまり、記号化し、象徴機能を持つ言語を指します。
 
 私は、そこで、「接触言語」なるものを造語して、その存在を考えています。

 接触言語とは、肌と肌の触れ合いの場、あるいは肌と対象の間に生まれる言語のことを言います。
 
 私の言う接触言語は、通常の言語に翻訳できません。
「スキンシップ」とか「抱擁」「愛撫」「ふれあい」「祈り」とか、その外側を翻訳することはできても、中身は翻訳できないし、必要もありません。
 音声言語で語りえるものと語りえないものとの間にある言語だと思っています。
 アニミズムはより音声言語側にあり、もっと奥にあるのはトーテミズムです。
 
 音声言語とは別に、接触言語があるのではなく、全ての言語の基礎にこの接触言語があるように思っています。

「言葉の不思議―言語発達と障害」
http://ksjasmine.exblog.jp/tb/15881586 
というブログに次のような文章がありました。

< たとえば、言葉を介してのコミュニケーションでは、発音の正確さが大きな鍵を握りますね。この発音を獲得するときも、触覚は大事な役割を果たします。/m/、/p/、/b/、/f/、/v/の音は、唇の感覚を通じて習得します。子音のほとんどは、舌の位置ーもっと具体的にいえば、舌先や舌の側面が口の中のどこに接しているかによって、正しい発音を身につけます。例外のひとつに、英語の/r/音がありますね。英語の/r/音は、舌先も側面も、口の中のどことも接触しないので、触覚では習得できない音です。もちろん、外からも見えない音なので、英語を母国語とする子どもにとっても、身につけるのが難しい音です。アメリカの小学校には、この/r/が正しく発音できないという理由でスピーチセラピーを受けている子が大勢います。こういった子たちの大半は、ほかの音は問題がないのに、なぜか/r/だけが発音できないのです。これも、触覚刺激が得られないことが習得を難しくしている、ともいえるのではないでしょうか。 >
 
 私は毎日、肌と肌の触れ合う仕事をしていて、また時々リンパマッサージの講座を開いたりしていますが、人が人に触れる時、触れようとするその人、そして触れられる人のこれまでの人生が凝縮して現れてくるなあ、と感じています。

これは、肌と肌の触れ合いに限ったことではありません。
しかし、
うかうか暮らしていると、ごくありふれた刺激になってしまったりします。