試練に耐え生きることの意味 菩提心と愛

今読んでいる本の中の一冊が
ヨブ記の黙想」試練と恵み カルロ・マリア・マルティーニ著 女子パウロ会発行 です。
 
24頁から引用します。
 
ヨブ記
 
 試練は人生につきものですが、わたしたちはそれによって人生を悲しいものとしてはなりません。わたしたちの霊操のテーマはこの試練に触れるものです。わたしはあえて申します。人生で心の平穏を保証する唯一の道は試練にふさわしく対応することです。試練を取り除くのではなく、それを生き抜くことが、キリスト者の喜びをユニークなものとするのです。
 
2011−2−16の日記 神にたのむ 神に祈る のなかに、K牧師のことを書きました。
 
聖書を読んだことのない私に、キリスト者の祈りが分かるように、次のような例えを述べてくださいました。

< ここに、ニンジンが嫌いな子がいるとして、「明日の給食の献立にニンジンが出ないようにしてください。」とお願いするのは祈りではなく、「明日の給食の献立に私の苦手なニンジンが出ます。どうか私にニンジンを食べる力を与えてください。」とお願いするのが祈りです。>と
 
 「現世御利益」は、私たちが向き合う大きな課題の一つです。
 
 「ニンジンが嫌いな子」を、「跳び箱を飛べない子」と置き換えるとどうなるでしょうか?
 
 「明日の体育が休講になるように」、あるいは、「跳び箱の授業がありませんように」、と願う子もいるでしょう。「跳び箱を飛べるような力を与えてください」と願う子もいるでしょう。
 
 でも、別の解決を考える人たちもいるとおもいます。
 「誰もが跳び箱を飛べなくてもいいだろう。跳び箱を飛べないのも個性だ。」
 「ニンジンが嫌いな子がとても多い。食べ残しも多い。無駄だから、ニンジンの量を減らそう。」
 「ニンジンの献立は続けるとして、嫌いなものは残してもいいことにしよう。強制まですることはない。」
 
 「ニンジン」や「跳び箱」を「老いること」や「死ぬこと」と入れ替えるとどうなるでしょう。
 「とりあえず、今多くの人が従っている、ルールや道徳、法律」と置き換えるとどうなるでしょう。
 
 どの課題も突き詰めていけば「私達一人一人が、この人生において何を成し遂げようとしているのか?」という課題に行きあたるように、私は思います。
 そしてそれは、他者や世界に問うのではなく、自分自身に問うことだと。
 
 諸行無常 諸法無我 一切皆苦 寂滅為楽 発菩提心
 
 ああ、無始以来の花が咲いている