Balance瞑想

「自分を守る」という言葉には、色々な意味が含まれます。
 
「ご飯を食べる」こと、夜になれば、雨露のしのげる場所で「眠る」ことなど
誰にでも見られる、ごく自然な、習慣的な行為も
「自分を守っている」という意識が伴っていなくとも
それはいちばん基本的な自分・からだを守る行為であり
「自己保存欲求」と言ったりします。
 
ショーペンハウアーは、人間には根拠を持たない「盲目的な生存 意志」が根底にあるといいました。
 
風邪をひかないように、季節に合った服を着たり、栄養のあるものを食べたり
何らかの健康法を実践するのも、自分を守る行為でしょう。
 
そこには
食べる、眠るといった基本的な自己保存欲求に、文化的な要素が入ってきます。
 
地震が発生し、机の下に避難するとか、津波のことを考えて高台に避難するとか
目の前の危険を回避することは、もちろん自分・からだを守ることです。
 
自分のやりたい仕事に就くためにとか、収入の高い仕事に就くとか、
地位や名誉のある地位に就くために、学校へ行くといった行為は、
長期的な視野に立った自分を守る行為といえるでしょう。
 
単に自分のからだだけでなく、
自己や自分らしさ、自己の尊厳を守ろうという要素が加味されます。
 (欲求から欲望へ)
 
このように、
ストレスや暴力など、自分を害するものを遠ざけ、自分を守ろうとすることは、人間の最も根源的で強力な行為でありましょう。
 

今では使われることのない表現かもしれませんが、
「武士は、食わねど高楊枝」という表現があります。
食事を摂ることも自分を守る行為であり
体面を保つことも自分を守る行為です。
 
自分を守ろうという方向は同じであっても、
具体的にどのような行為を選ぶかは、人によってそれぞれでしょうし
また、同じ一人の人間であっても、状況によって違ってくるでしょう。
 
自分を守るための行為が、自分を苦しめることだってありましょう。
苦しみつつも、自分を守るという方向自体は、人はなかなか離れられません。
 
パーティーには参加したものの、自分から積極的に話しかけられない場合も
それも自分を守っている行為でしょう。
 
自分を守るためとして自分が選んでいる行為が、苦しみを生んだりしているということに
なかなか実感できなかったりします。
 
守るということを一時的に放棄したり、保留しても、生きていられるし
かえって安らぐという体験を味わったりすると人生が違ってきます。
 
今から30年以上も前、タイのバンコクで、赤痢になって、死にかけたとき
そういう安らぎを感じました。
 
盲目的な意志に突き動かされるのではなく
かといって否定して、捨てるのでもなく
(本当に捨てるのは最終に旅立つとき)
保留という関わり方 Balance
 
いちどこのBalance感覚を体験し
日々思い出す それがわたしの「瞑想」