そもそも、「救われる」とはどういうことだろう?

そもそも、「救われる」とはどういうことだろう?
 
単純に、苦しみがないこと、不安がないことという答えが聞こえる
   
苦しみがないこと、不安がないことと、
苦しみを感じていないこと、不安を感じていないこととは同じとは言えない。
    
苦しみや不安を感じていないければ
救われているといえるだろうか
     
普通、世間一般のあり方は、「苦あれば楽あり」という状態だと思う
苦しい時はあわてふためき、運よく苦が通り過ぎれば、忘れ果てる
その苦あれば楽ありの状態を、「一切皆苦」とみる位置がある。
      
苦あれば楽ありといえど、人はからなず死ぬ
     
人間にとって、不死はありえない。だから、不死が現実的な救いとは思えない。
不老もありえない。きっと、無病もあり得ないだろう。
経済的安定? 安定していることに越したことはないが、
安定していても、必ずしも救われるわけでないことは
経済的に安定していると思われる人を観るとよい。
やはり、死に怯え、老いに怯えている。
     
では、この世での安定ではなく、あの世での安定?
あの世で不老不死になること?
あの世、天国や極楽?
天国とか極楽は、お酒や料理が美味しい竜宮城とは違う。
あの世での不老不死が約束されたとて、そして
実際あの世が不老不死の世界であったとて、
それだけでは救われたとは言えないだろう。
      
かつて、ヨーロッパで免罪符を買った人々は
どのような罪が、免罪符で救われると信じたのだろう。

カルヴァンはどうして
「人間には、神が何を規準に救う人救わない人を分けるのかはわからない」
などといったのだろう
それでいて、多くの人がどうしてカルヴァンを支持したのだろう。
    
天国がどのような世界か、救いとは何なのか
確かめないまま、天国へ召されることへの
確信を失ったから、予定説を信じ、
救いの証としての富に固執したのだろうか
それまで禁止されていた利子も認めるようになったのだろうか。
     
救われるとはどういうことだろう?
      
極楽とは、お釈迦様のそばにいて、直に話を聞けるところ
     
仏教では、「一切の自性が空である」と直感し、
菩提心を生きることだという
それが、お釈迦様のそばにいるという暮らし
     
 
信じることが必要だということは、その通りだと思う
どう生きるにしても、信じないことには人は生きられない
人は言葉なしでは暮らしていけないだろう
言葉の意味を辿っていけば、やがて無定義語に行きつく
無定義語は、それ以上の詮索はしないということ、信じるということ
     
信じた後、どう生きるか、を言うことを考えている
      
南無阿弥陀仏と唱えるのは
無量寿経を信じるということ
法蔵菩薩誓願を信じるということ
南無阿弥陀仏で救われるということを信じるということ
南無は帰依するということ
帰依するとは、その後一切の計らいを捨てるということ
救われるには、救われたいという思いもまた捨てるということ
      
しかし
呪文として、南無阿弥陀仏を唱えると
すぐに堕落する
     
今年は、経済格差がますます広がるだろう
失業者も、自殺者も、DVの数も増えるだろう
    
一切の自性は空である
     
エロイ エロイ ラマ サバクタニ
その先に 救いがある