アローハ ロミロミ

以前にも書いたことがあるかもしれないが
 
ある時、バイクの前照灯の電球が切れたことがある
バイクや自動車部品の卸しも営んでいる修理店に行くと、
社長自らが出てきて、電球を交換してくれた
 
ところが、すぐにまた切れてしまった
電球を見てみると、電球のW数が全然違う
 
それで、別のバイク専門店に行った
すると、適合したW数の電球を入れてくれた
しかし、また切れてしまった
 
次には、レトロな感じの小さなバイク屋さんへ行った
詳しい説明はしていないのに
「電球が切れてしまったんです」というと
電球を見て「バッテリー液をみましょう」という
 
店主が言うには、バイクというのは、
走りながら、バッテリーをチャージしているという
もし、バッテリー液が不足していると、
バッテリーにチャージせず、電球に大量の電気が流れるから切れたりするという
電球が新しいのに、切れているのは、その可能性があるという
 
そして、やはりバッテリー液が不足していた
 
何を言いたいかというと
電球を取り換えるだけで済むレベルと
そういった事象の奥の構造に気づかねばならないレベルがあるということ
 
これは、
心理療法にも言えるのだろう
 
今から30年ほど前、
対人関係などがうまくいかない人の原因は、抑圧された無意識であり
抑圧された無意識を解放させてあげれば
悩みが解決するという考えのセラピーが流行ったりした。
 
抑圧された無意識を明らかにし
思いを発散させるといった技法がいろいろ開発された
 
グループ療法もその一つで、
いろいろなやり方で、グループの中で、極限状態を作り、自分自身を追い詰め
そこで、無意識を発現させ、それと向きあうといった方法だった
 
自分が秘密にしておきたいこと、触れたくないことを、
衆人に明らかにするわけで
一大決心が要った
 
決心して、みんなの前で、技法を実践し、自己をさらけ出し
今までにない自分になれたような感じがしたりするのだった
 
我慢して、我慢して、自分を苦しめていた人が、そういったセラピーを受けて
その後、どうなったのだろう
 
自己主張できるようになった
しかし、マイナス感情(特に怒りを伴った)自己主張が多かったように思う
小さい子供が駄々をこねるような主張だった
今から思えば、セラピストの力量不足だったように思う
 
そして、結構、再発も多かったように思う
切れた電球を新しい電球に取り換えても、
その事象の構造に気づいていないと再発するように
 
また、自分に関する不具合を
常に自分以外の者(無意識を含めて)のせいにする構造は変わってなかったりした
 
しかし、今でも、そんな理論と技法の名残りのあるセラピーもあるようだ
 
感情と筋肉が、深く結びついていることは確かだ
笑えば、表情筋周辺のある種の筋肉がゆるむ、
逆に、ある種の筋肉がゆるんでいると、笑っていると自他ともに認める
場が和やかになったりする
笑う門には福来たる
 
腹が立つと、
眉がつりあがったり、歯を食いしばったりする
肩を怒らせるという表現がある
 
逆に、肩を落とす、肩身が狭いなどという表現がある
  
誰だって、人生を振り返れば、
腹を立てたこと、立てられたことがあるだろう
厳しくあたった人もいるだろう
また、過去の理不尽な出来事に対して、ある人を
赦してあげることも大事だろう
 
だからと言って、筋肉のコリを、すべて過去の生い立ちのせいにするのは
切れた電球を新しい電球に換えるレベルの話だと思う