精神と自然 イメージは無意識に形成される

心理学との出会いは、やはり「フロイト」から始まった。
フロイトを読んでいた頃「無意識」という「もの」があると信じていた
  
その後、ヘルマンヘッセに出会い、フロイトからユングに興味が移ったのだが
「集団無意識」という「もの」があると信じていた。

アドラー心理学に出会い、日本アドラー心理学会初代会長野田俊作先生に出会い
グレゴリー・ベイトソンを知り 
今は、個人全体に造反する主体としての「無意識」や「心の傷」なんてものは信じていないが
「無意識的過程」は存在すると思っている
 
全ての動作を意識的に行っていたなら、それこそ賢すぎる人工頭脳のように、
演算するだけで、身動きが取れないだろう
たかだか二桁の計算をするのに、
頭だけでなく、腕や紙や鉛筆や、机が必要だ
  
何度も書いてきたように
体全体が一つのシステムであり、
体全体も、それより階型レベルが上のシステムの一部だと今は思う
  
皮膚や筋肉より脳がえらいとは思っていなくて
皮膚も脳も外胚葉由来だし、元はといえば、子宮に着床した一つの受精卵だ
   
体全体のシステムを、「こころ」と呼んでいいだろうし
もう一つ上のレベルのシステムを、「おおいなるこころ」とよんでもいいだろう
  
こころは「もの」ではなく「こと」であり、その「こと」はレベルが下がった「もの」に由来する
そしてその「もの」も実は「こと」であり、更にその「こと」は、更にレベルが下がった「もの」に由来する
  
私という「こと」は、そのうち分散するだろう
大いなるこころは、私を抜きにして、展開していくだろう
  
分散していく過程で、痛かったり、だるかったりするのは適わないが
えり好みは出来ないだろう
  
すでに分散の過程つまり老いと病が、
私の中で進んでいることを日々自覚、体感している
  
からだはだるいが、日々ほぼ満足している