部分と全体 記述と説明

「知覚された世界が部分と全体に分かれるのは便利であり、必然なのかもしれぬが、その分かれ方の決定に必然は働いていない」
  
幼い子どもに、「くじらはお魚の仲間ですか?人間やサルの仲間ですか?」と尋ねると、
おそらく「お魚の仲間です」と答えるのではないだろうか。
  
中国人も「くじら」を魚に分類して、鯨という漢字を当てたのだろうか。
  
<名づけるとは、すなわちクラスに入れることなのである>
<ものの名前は名づけられたものとは違う>
と、ベイトソンは言っているが
ベイトソンに出会う以前には、
 
ソシュールが、記号を、記号表現・能記・シニフィアンと記号内容・所記・シニフィエの両面から成り立っていること、記号表現が世界を切り取る切り取り方、能記と所記の結合の仕方は、社会制度に規定されることを述べていることから、部分の分け方に必然は無いと教わった。
  
右手と左手は、同じではないが、別のものではない。
手と腕は同じではないが、はっきりした境界があるわけではない。
 
漢字なら一字で、「兄」とか「弟」と表現できるが
英語の brother  だと、兄と弟の区切りがない
  
ただ、手とか腕とか足とかいう言葉を使っているうちに、
どこかに境界があって、部分をあらわす言葉を実体視するようになり
それらの部分が集まって、体という全体が出来ていると、錯覚してしまう。
 
こういうことと、私達の日常とはどう結びついているか? 
 
世界からまるっきり独立し、境界を持ち、閉じられた「私」や「あなた」を認めないということになる

そういっても、私とあなたは違うではないか?というかもしれない
 
「わたし」と「あなた」は同じだ、とか同体だ、といっている訳ではない
 
「わたし」が「あなた」と居て、あるいはあなたを思い
行動することしゃべること考えることは、
あなたとの関係の中から生まれるということ
 
「単語」の意味は、「文章」に依存し、「文章」の意味はもっと大きな「文脈」に依存する
 
早めに咲いた山桜だが、もう散ってしまったのもある
今年咲き散った山桜の花は、一回性といえば一回性だが
その一回性は、宇宙開闢以来の生命の連続性の中にある
 
一回性と連続性の区切りにも、必然はない