精神と自然 客観的経験は存在しない
「ある一時期、客観・主観に拘ったことがあってね」
「そのときの客観・主観の意味は?」
「価値観を含んだ文章を主観文
価値観を含まない文章を客観文と決めたのさ
例えば、
<福助堂のケーキは安い>は主観文
<福助堂のモンブランは280円>なら客観文というふうに」
「それで?」
「先ず、何より、自分と相手のたった今の発言が、主観文か客観文かに気づくこと
そして、状況により、きちんと使い分けるように努力していた。」
「自分自身の発言を、きちんと客観と主観により分けていたように
相手にも、求めてたでしょ。時には指摘したでしょ?」
煙たがられなかった?」
「そうだね、今から思うと、よく切れる包丁を振り回していた感じがあっただろうね」
「それからどうしたの?」
「ある人にね、客観文と主観文の論理階型を指摘されたんだ
そのときは、論理階型という言葉を知らなかったし使わなかったけどね」
「具体的にどういうこと?」
「<福助堂のモンブランは280円です>という文だけを取り出すと確かに客観文だけど、
数多くあるお菓子屋さんの中で、福助堂を取り上げるというところに、価値観が含まれているというんだ。
価値を含んでいない文章であっても、文脈に価値観が含まれているってね。」
「ある公理系は、客観文だけで書かれているかもしれないが、
その公理系を選ぶことには、主観が含まれるってことかな」
「そういうこと。
今になって気づいたことだけど、当たり前の話だけどね
相談室と家庭は違うということだね
家庭の場は、利害の対立の場であったりする
そんな場面で、相手の文章や文脈の論理的矛盾を突いたところで
余計関係が悪くなるだけだということ
でも、
自分や相手の表現している文章が、客観文か主観文か
相手がどのような公理系を選んでいるか、見分けることは大切だと思う。」
「包丁はやはり研がれていて、よく切れなくちゃね」
「そう、その包丁でどんな調理をするかは又別の次元の話だね」