同じ彷徨うにしても

「本能と理性」 あるいは 「肉体と精神」 という二元論を
自明のこととして、私の青春時代は始まった。
 
日常生活では、理性という仮面をかぶっているけれど、その内奥には
肉体があり本能がある。
 
社会の要請、社会に属するために、普段は理性という仮面をかぶっているが
内奥には、本能があって
時に飛び出そうとするが、理性が抑えている
という仮説を、心理的な真理だと信じ込んでしまった
 
抑圧された本能、衝動、思いを解放させない限り、真の解放はないとも思いこんでしまった
 
真なる衝動は普段抑圧され、隠されているから、先ずそれに気付かねばならない
という説明を真に受け
最初は、その説を信じている人々と共に非日常の秘密空間の中で向き合おうとした
自分を追い込み、服を脱ぎ、殻を脱ぎ、叫び、ぶつかり、対峙し、踊り、走り
自分の真の姿に出会おうとした

「見ることも触ることもできない悪魔」の「祟り」という言葉を
「見ることも触ることもできない無意識」の「抑圧」と置き換えただけなのに
それを「科学」と思ってしまった
 
非日常の場から日常の場にも機会を求め 自分を追い込もうとした
街角で歌い 踊り 仕事を辞めて リュックを担いで旅に出た
リュックの底には、ヘルマン・ヘッセの本を潜ませていた
旅の途上で出会った人は、カスタネダの本を持ち、呪術師を探していた
追い込んだ結果 異国の地で赤痢になって死にかけた
 
追い込んでも追い込んでも、真の自分などには出会わなかった
裸になったところで
特殊な状況での特殊な自分だった
 
今見渡せば、今も二元論や実在論のリュックを背負って 彷徨う人々が見える
 
同じ彷徨うにしても、荷は軽くあれかしと祈る