学歴社会とロマン主義

私は昭和29年(1954)生まれです。
私達の青春時代を象徴する言葉のひとつに「学歴社会」という言葉があります。
 
学歴社会が終わったのか、まだ続いているのかということは、私がこれから述べようとしていることの主題ではありません。大企業では、やはり学歴社会が続いているでしょうし、大学進学率が上がり、大学生の数が増えたという変化もありますし、私が青春時代の頃の日本型経営、つまり年功序列や終身雇用は昔のままではありません。非正規雇用は40%を超えています。
 
私の青春時代を象徴する言葉のひとつに「学歴社会」があった、ということを取り上げる目的は、当時、肉体と精神、本能と理性の二元論が常識であり、どちらかといえば、理性や精神が重視されていて、かつ歪もあり、肉体や本能の復権を目指す人々もいたということを述べたいからです。
    
それは、「気功」とか「ヨガ」とか「太極拳」「自然農法」「瞑想」「フリーセックス」「ドロップアウト」「コミューン」「ボディワーク」志向という形で現れたりしました。
      
しかし、理性偏重に対しての揺り戻しというのは、私の青春時代に限ったことではありません。
世界史を振り返ってみると、ウィキペディアには、ロマン主義を以下のように書いています。
    
<主として18世紀末から19世紀にかけて行われたヨーロッパ、及びヨーロッパの影響を受けた諸地域の精神運動のひとつ。それまでの理性偏重、合理主義などに対し、感受性や主観に重きをおいた一連の運動で、その動きは文学、音楽、絵画など様々な分野に及んだ。>
     
少年時代の読書の中で、私にとって記念碑的な作品といえば、ヘルマン・ヘッセの「荒野の狼」とジョルジュ・サンドの「愛の妖精」です。読んでいた当時は、サンドがフランスのロマン派であるとは知りませんでした。(ロマン主義文学というのは、ロマンチックな内容の文学のことで、時代とは関係ないと思っていましたから。)
    
随分長い間、自分は要素論者でも実在論者でもない、全体論の実践を求めて生きてきたと思ってきたのですが、根っこには要素論、実在論、理性と知性重視があることを最近になって感じています。
とはいえ、それらを捨てて揺り戻すことを目指そうとは思いません。
       
揺り戻したら「単なる(反動)ロマン主義」になってしまいます。
「主義」という言葉には違和感を抱きます。主(義)があれば従(義)があるのですから。
「派」という言葉も、違うなと思いつつ
またネオロマンという言葉のネオも違うと思いつつ
あえて言えば、メタロマンとかフラクタルロマン、非線形ロマン、複雑系ロマンという表現になるような態度を生きようと思っています