フラクタルなロマンチシズム あざなえる縄のごとし

少年期には、周りの環境と自分を変え、人生を切り拓いていく最大の要因は
自分自身の理性と意志であると思っていました。
 
また、そうでなくてはならぬと思っていました。
宿命論や決定論には、興味がわきませんでした。
 
しかし、60歳を前にして あるひとがいった
「すべては、なるようになる」という言葉のことを思います。
 
個人の理性ではとらえられない様々な要因が織りなして
世界が変化していると。
 
地形や気候風土、土壌、水といった環境条件
歴史風土や因習、法律、精神風土といった文化条件
農業技術や科学技術、生産様式、経済、宗教などなど
 
1848年のヨーロッパの2月、3月革命に対して
その後の社会改革運動家の人々の中で、厳しい評価をする人々がいます。
 
しかし、ボヘミヤの貧しい農家の3男に生まれ、長兄の小作人にもなれず
頼る人もなく、ウィーン郊外の下水道の地下道に住む男が
1848年の革命において、未来を見据え予測し、
後の評価に耐えうるような行動として何ができたでしょうか。
 
翻って、今この現代を思います。
現代において、未来の社会改革運動家の評価にかなうような行動とはなんなのか。
 
変化していくこと(格差が拡大すること)は確実であっても、
世の中が自分の思うように変化していくとは思いません。
 
例えば、格差の拡大を十字架に例えるならば
十字架にかけられたとしても、架けた人を憎むのではなく
奇蹟を望むのでもなく
同じく、隣の十字架の上にいる人とともに、
そこをパラダイスとすることができることのように思います。
 
長い歴史を経て生まれた銀行制度や信用創造、利子制度が
自分の生きているうちになくなるとはおもいません。
 
もちろん、今は未来への過程でしょう。
未来につながる過程であることの自覚を失えば、
それはいとも簡単に「刹那主義」に陥ります。
 
しかし、今を未来への過程とのみ捉えると
それもまたいとも簡単に、
「他者疎外、自己疎外、劣等感、苦しみ」に陥ります。
 
私は、縄を綯うことを、祖父母から習いました。
 
稲わらに湿り気を与え、砧で打って柔らかくします。
数本の2組に分けられた稲の束は、それぞれ掌で回転を与えられ、捩じりがうまれます。
その捩じりの回転方向と逆の回転方向に、
その2組の稲束をからめることによって、縄は綯われます。
 
捩じりを戻そうとする動きが、新たな次元の捩じりを創っていきます。
 
私が、二重性、多重性という言葉に対して抱くイメージのひとつが
この縄を綯うような二重性です。