歴史を学ぶ 歴史に学ぶ

「あなたの祖父母、曽祖父母のお名前を聞かせてください」と言われて
答えられる日本人の割合は、どれくらいあるのでしょう?
 
私は、家系を調べたことがあるので、
直系の曽祖父母の名前はわかります。
(曽祖父の祖父母までは戸籍簿に残っていました。)
 
その曽祖父についての直接の思い出はありません。
曽祖母については、
私が育った家から歩いて30分ぐらいの祖父母の家の隠居部屋にいて、
幼い頃、遊びに行けば、飴玉やお小遣いといって5円をもらった思い出があります。
 
祖父が、自伝を書いて本にしてあるので、それを読むことで、
祖父母の人生の一部がわかります。
 
本にしてなくとも、祖父母や親が、子に孫に語りかけ、
子や孫が親や祖父母に尋ねることが
歴史を学ぶ原点であるように思います。
 
例えば、祖父母の馴れ初めについて尋ねたりすると
祖父と祖母、語り手が違えば語られる中身が違うことも体験することでしょう。
 
また、兄弟姉妹複数で聞き取り、あとで話し合えば、
受け手によって、理解した内容がそれぞれ違うことが分かるでしょう。
 
語り手によって、語る内容が異なり
受け手によって、受け取り方が違う
これは、家系だけでなく、郷土や国の歴史を学ぶときにも言えることです
 
私は、この世に突然現れたわけではありません。
私には両親があり、その両親にも両親があり、更にその両親にも両親が居ります。
何処までも繋がっていきます。
 
私が生きている時代環境と、曽祖父が生きた時代環境は同じではありません。
一体これからどのような時代になっていくのか、どう生きたらいいのかと
考えるときがあります
 
ものごとは絶えず変化してきたとおもいます
一回きりの出来事の連続であっても、そこに
法則性・冗長性が仮定できるのかどうか
その仮定が正しいと言えるのかどうか なにをもっていえるのか
 
様々な因があって、縁の中で、果をもたらしてきたことは見えてきます
出来事は一回性でありながら、因縁果のつらなりでもあると
歴史に学ぶことができます
 
語り手によって違い
受け手によって違ってくる歴史
その受け手である私も、刻一刻変化しています
 
学べば、「知ある無知docta ignorantia」の自覚が深まっていくことでしょう