二律背反 二重性

私達人間の肉体が、時間とともに老化していき、
やがて機能を停止し、分解していくということは
経験から導かれるほぼ確実な予測です。
 
どんなに最適、最高な健康法を実践してみても、
人は必ず死にます
だからと言って、健康法を実践することに全く意味が無いとは思っていません
 
 
私達人間が、たった一人では生きてはいけないということは
これも経験から導かれる事実です
ポイポイ使い捨てするテッシュペーパー一枚すら
私達は一人で作り出すことはできません
教科書には「人間は社会的動物である」と述べられています。
  
「一人では生きられない」ということは
「自分の思うような社会にはすぐにはならない」ということです。
自分と価値観の全く違う人であっても、
その人が、自分の人生や生活を支えている場合があるということです
  
ここ2000年を振り返ってみても、
常に犯罪があり、搾取があり、戦争があり、格差があったとおもいます
自由平等が実現された時代があったとは思えません
これからも、直ぐには実現されるとは思えません
理想的な社会がすんなり実現されるわけではないとしても
あるいは遠い通り道のりだとしても
理想を述べ語ることに全く意味が無いとはおもいません
 
でも、そんなやがて必ず老いて死ぬ身でありながら
常に矛盾があふれている社会のなかで
私は私の人生をどう生きていったらいいのでしょう
 
「受容」という言葉の意味も、単にありのままをそのまま受け入れるということではなく
受け入れつつ働きかける、働きかけつつ受け入れるというふうに
二律背反そのものを受け入れることが、受け入れることのように思います
 
血管が傷ついたら、自然に血小板は集まります
ご飯を食べたら唾液が出ます
走性とか本能とか言われている働きが私のからだを維持していると思いますが
そんな働きを基にして
思考したり、意志決定したり、行動を起こす時に、
言葉を使っているということ、言葉があって思考や意思決定ができるということも経験をもとに思うことです
 
ただ、言葉の区切りが、世界の区切りではなく
人間の側が勝手に(恣意的に)区切ったものであるのに
いつの間にか、世界の側にそんな区切りがあると思ってしまうことも
言葉の副作用であると、私は思います
具体的には、例えば正常と異常という区切りです
健常者と障害者という区切りです
 
区切ることが背反の元でしょう
でも区切らないことには、言葉は働きを為しません