わたしはある。わたしはあるというものだ

随分長い間、歴史は一方向へ流れていくものと思っていました。
歴史年表のように、過去から未来へと流れていくという意味だけでなく、
未開から発展へ、理想社会へ、平等社会へ、平和社会へと流れていくものと思い込んでいました。
            
従って、個々人の人生の意義も、そういった理想社会の実現に貢献することに意義・意味があると捉えていました。より高い理想・目標を持ちそれを実現することに意味があると思っていました。
            
高校生の頃、学校の授業では飽き足らず、岩波新書の「社会主義入門」をテキストにして、友人と勉強会などを開いていました。
               
当時私の中にあったスローガンは「働きに応じた分配から、必要に応じた分配へ」でした。
                
それから約40年、さらに大量生産、大量消費、大量廃棄の社会となり、格差は広がり、放射能が地球全体にばらまかれ、高校生の頃のように、紆余曲折があっても、時代社会は理想に向かって進んでいる、とは言い難いです。 今は、未来のことはわからない、と思っています。
                  
私は、人間の「理性」を基本に置いた啓蒙時代の影響を受けていたのだと思います。
                  
では、いま 私のよりどころになっていることは何でしょうか?
                
ひとつは、ゴータマ・シッタルダにつらなる仏教です。
「これあるによりて これあり」
               
出エジプト記のなかで、モーゼの問いに対して、神は
「わたしはある。わたしはあるというものだ。」(新共同訳)と述べましたが、
わたしにとってここでいう「ある」は、先ほどの「これあるよりてこれあり」の「ある」です。
               
人間社会が、これからさき、理想社会を実現するということは恐らくなくて、むしろ苦に塗れていて、
そして、同時に「ある」を体験するところが、その時々のパラダイスであるとおもっています。
              
ちょうど、聖書の三本の十字架のように。
「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(パラダイスにある)。」
                      
「死後私は、神の国に行くことができるだろう」という証(あかし)を手に入れることが問題ではないと思っています。