大逆事件百年 熊野に生きるものとして 

現代の日本人であれば、「恋愛」という単語は、日常の中でごく普通に使う言葉だと思います。しかし、この単語は、江戸時代には無かった言葉です。明治時代になって、文学者として知られている北村透谷によって、造語されました。

北村透谷は、明治元年に下級武士の子として生まれ、26歳になる前にこの世を去っています。 
自由民権運動に参加しますが、運動の実態に失望し、運動を離れ、文学の道に進みます。1888年キリスト教徒となり、雑誌『文学界』で活躍し、多くの青年に多大な影響を与えました。

 「厭世詩家と女性」という評論を書き、いわゆる恋愛至上主義といわれる生き方を表明しました。絶対平和主義の思想にも共鳴し、日本平和会の結成にも参画しました。しかし、日清戦争前夜の時勢の中で、次第に精神に変調をきたし、1894年、芝公園で自殺します。

 大石誠之助は、明治元年の前年、新宮に生まれました。その生い立ちは熊野地方に人々には申すまでもなく、アメリカの大学で医師資格を取り、帰郷し医院を開業します。貧しい人からは無理に治療代を請求しませんでした。幸徳秋水などとの交流もあり、1910年大逆事件で検挙され、翌年死刑となりました。43歳でした。

 インターネット上の辞書ウィキペディアには、大石誠之助を「社会主義者」と紹介しています。
では、社会主義を同じウィキペディアがどう説明しているかというと、

 < 社会主義は、資本主義の原則である自由競争を否定または制限し、生産手段の社会的所有・管理などによって、生産物・富などを平等に分配した社会を実現しようとする思想と運動の総称。社会主義を唱える思想はきわめて多岐に渡る。>

 と書いています。
 
 大石誠之助は、自由競争を否定したり制限すること、そして生産手段の社会的所有と管理を主張したのでしょうか?

 私の手元には、濱畑榮造著「大石誠之助小伝」があります。
 
 この中に、大石誠之助が書いた「国体論」があり、

 < 先ず我が国体はどんなものかと言うに、日本という国を、一つの家族とみて、帝室がすべての人民の上に父ともなり家長ともなって、全国民を平和安穏に治め給うと云うことである。語を換えて之を云えば、日本と云う一大家庭に行わるべき道徳的の関係が、即ち我が国体の精華であろう。然り、余は日本の国体から、此の道徳的関係を取り除けば、全く零に帰するものと信ずる。>と書いています。
 
 また「社会主義無政府主義に対する私の態度について」という文章があり、
 
<私はただに社会主義者ばかりでなく、文学者でも宗教家でも、画師、俳人などでも、私の処へ頼ってくるものがあれば、或いは泊めてやったり、金を与えたりする事はしばしばあります。つまり地方の重立った人々よりも多く趣味や教育のある人と交際する事を喜ぶと云う程の意味で、必ずしも彼らに深き同情を寄せ、悉く彼等の主張や態度に賛同すると云う訳ではありません。> 
<私は社会主義無政府主義に対し、理想と実行とを全く別々に離して考えて下りました。> 
とあります。
 
 主義の如何に関わらず私達人間は、歴史以来、生産の分業と分配や交換で社会を成り立たせました。
 生産のあり方、分業のあり方、分配のあり方、(一方的な交換や略奪を含めて)交換のあり方は色々あったでしょう。いまもあります。
 
 不幸にして奪い合うことが当然の時代や地域、必要以上に所有することを生きがいと感じる時代や地域がありました。いまもあることでしょう。
 
 そういった姿を見て、大石誠之助は、隣人に対して、自分の思うところを実践し、語り、大逆事件で死刑となりました。
 
 熊野に生きるものとしては、大逆事件が冤罪であったことを世に伝えていくことは大事だと思います。と同時に、大石誠之助の心、魂がどのようなことを願っていたのかを推し量り、日常生活の中で後を継いでいくことが大切と思っています。
 
 私の曽祖父も明治元年生まれです。農家の次男坊として生まれ、受け継ぐ財産のないところから、田畑や財産をつくり、農業人として一生を過ごしました。当時百姓家としては珍しく子ども(祖父)を師範学校へ通わせ卒業させました。
 
 我が国、我が郷土、我が家族の歴史を学び、人は如何に生きるべきかを自ら考え、答えを創っていくことが大切と思っています。