不安や恐れが、どのようにして生まれてくるのか、丁寧に見つめること

k1s2011-12-16

 私達の様々な行動のその無意識的な動機を考えたとき、意識的な動機のほかに、不安や恐れを解消するという動機があるように思います。
 
 私の今のこの行動の動機は、意識的な動機のその下に、不安や恐れの解消といった無意識的な、生理学的な動機があるな、と思っても、更にではその不安や恐れはどのようにして生まれているのかと観察することは少ないように思います。
 
 老いていくことへの不安でしょうか、死ぬことへの不安でしょうか、理解されなくて孤立する不安でしょうか、痛みの不安でしょうか、

 不安とか恐れは、その感情が生まれるきっかけとなった対象がはっきりしないからこそ、不安とか恐れといわれるのでしょう。ですので、どのようにして生まれてきたのかと見つめるのも一つの有効な対処法です。
 
 見つめたからと言って必ずしも、ああこれが不安や恐れの根源だったのだ、とはっきり見えてくるとは限りません。正体がますます不明になったりするかもしれません。と同時に、根源となった対象は見えなくとも、対象が何であれ、生まれるメカニズムが見えてきたりします。あるいは、みつめた途端、不安や恐れが、消えてしまったりします。
 
 今、この文章を読んでいるとき、読むことに集中していますと、おそらく不安や恐れは、一時的にしろ、消えていることでしょう。
 
 不安や恐れといった感情は、対象が何であれ、このままだと、自分の未来に、都合がよくないことが起こる「おそれ」がある、と予測することから生まれます。
 
 ひとつに、未来への予測を止めれば、不安や恐れは消えるということです。

 (仏教の瞑想体験では、色と受の接触の瞬間をみつめ、止めるといいます。)

 また、不安や恐れといった感情を全面的に否定する必要もありません。
 
 認知心理学でいうところの、アージ理論では、こういった感情には、人間の進化過程を見たときに合理性があるといいます。
 
 例えば、雨降りの日に、山道で、今までの体験から学んだことを基に、今目の前にある状況を判断すれば、斜面が崩れるかもしれない、この道を進むのはやめよう、という判断を下すような場面では、未来によくないことが起こる恐れがある、と感じるのは、身を守る上で有効な感情です。
 
 自分の今抱いている感情が、自分自身を守る感情であるのか、自分と他の人をつなぐ感情であるのか、環境を守り育てる感情であるのかを確かめることが大切だと思います。
 
 生命個体として個体を守り育てることも大切でしょう。さらに、生命個体・人と人がつながることも大切でしょう。更に更に、生命個体が、群れが、全体に組み込まれていくということも大切でしょう。
  

新約聖書の中で、イエス・キリストは、ゲッセマネの丘で、自分が十字架にかけられることを予測し、一旦は、「私に苦杯を差し出さないでください。」と祈り、その直後その祈りを撤回し、神に委ねます。
 
自分の身を守ろうとするのではなく、将来我が身に何が起ころうと委ねる、ということ、不安や恐れを遠ざけるのではなく、受け入れること、受け入れることで消えていくということも一つの道です。

これは、実際「委ね」ないと、味わえません。

では、「委ねる」という行為はどのようにして実践されるのでしょう。

意識して日常を暮していると、委ねるのか委ねないかの選択の場は、日常の中に数多くあるように思います。小さな委ねを味わい続ける中で、大いなる委ねにつながっていくように思っています。

 意識的に、日常をみつめること、委ねのチャンスには、委ねること。