心の闇 闇の心 不安と共に生きる

「心の闇」と「闇の心」
ごく最近まで、「闇」とか「暗黒」という言葉は、わたしにとって、マイナスな側のことばでした。
一般的にも、そのように受け取られているように思います。例えば、「心の闇」とか「暗黒時代」という表現がそうです。
 しかし、今のわたしには、闇とか暗黒はマイナスの側の言葉ではなく、光は暗闇の雫と感じています。世界各地には、暗黒から光が生じたという神話があります。
 闇とか暗黒とは、わたしにとって「知ることのない全体」を意味します。宇宙全体は、私にとって、無限の暗黒です。宇宙でなくとも、私のこのからだ全体も私にとっては完全に知ることはない暗黒です。私は私自身のからだ全体のこと・すべてを分かっている訳ではありません。同じく、私の心全体も、私にとっては完全に知ることはない暗黒です。
 そして、こころの暗黒、からだの暗黒は、宇宙の暗黒に繋がっています。
 暗闇の中を歩くとき、生きる時、灯りがある方がやはり便利です。灯りは、適度に強く、広く、長く照らす方が便利です。でも、灯りによって、暗闇のすべてが明らかになるとは思っていません。
 ただ、照らす範囲が広くなればなるほど、見えているところにばかり目が行き、私達は闇を小さく、狭く見てしまいがちです。あるいは、光と対立しているかのようにとらえ始めたりします。
 一旦対立と捉えると、暗黒が不安になったりします。
 灯り(例えば言葉や知識、理性)は、灯りの色で照らす世界を染めているのに、自分の見えている色が本来の色と思ってしまったりします。「啓蒙」といって、自分色の灯で世界全体を照らそうとしたりします。
 先ほど言ったように、私にとって暗黒とは、知られざる世界全体のことです。私のからだの暗黒も、こころの暗黒も、宇宙の暗黒とつながっています。
 寿命を蝋燭の火に例えることがありますが、人が生きるということもまたひとつの灯のような気がします。灯りが尽きるとは、亡くなることではなく、闇にかえるような気がします。
 生きるにおいて、火が灯ることにおいて、不安(影)はつきものと思うようになりました。
 不安の解決法は、不安が無くなることではなく、不安と共に生きることなのでは、と。
 ゲド戦記のゲドのように。