言語としての姿勢 言語に拘束される姿勢

言語ゲーム」という言葉があります。

ゲームgameという単語から、「娯楽的な遊戯」をイメージする人もいるかもしれませんが、英語のgameという言葉は、もちろんテレビゲームvideo gameなどのように、娯楽的な遊戯といった意味で使ったりしますが、試合soccer game、競技、体育競技大会Olympic Games といった使い方もします。
ここでいうゲームとは「ルールによって、その行動の内容が規制されているある目的を持った行動群」のことでしょう。

ウィキペディアには、
言語ゲームとは、後期ウィトゲンシュタインの基本概念。彼は後期の主著『哲学探究』において言語活動をゲームとして捉え、言葉の意味を対象や共通性質ではなく、特定のゲームにおける機能として理解すべきことを提唱した。 英語では「言語game」と表現しているが、勝敗を決める場があるわけではない。ドイツ語の「言語spiel」では「言語の機動的なふるまい」といったニュアンスであり、こちらのほうが端的に理解される。>とあります。

ウィトゲンシュタイン入門』(永井均・著、ちくま新書)には

<「ところで、言語ゲームがいかに多様だとはいえ、それらがすべて「言語ゲーム」と言われるからには、それらすべてを貫く何か共通の本質があるはずではないか。ここで、それらすべてを「言語ゲーム」たらしめている当のものは何か、というソクラテス的な問いが立てられることになる。
 ウィトゲンシュタインは、この問いを拒否した。同じ名で呼ばれているからといって、そのすべてに当てはまり、他のものには当てはまらないような、何か一つの共通本質があるわけではないのだ。むしろ、相互に別々の点で類似しているものが集まって、一つの家族をなしているのである。彼はこのことを、比喩的に「家族的類似性」と名づけた。一つの家族は、体格、顔つき、目の色、歩き方、気質、といった別々の点で互いに似ているのであって、何か一つの点で互いに似ているのではない、ということである。だから、「ゲーム」と呼ばれるすべてのものに共有されるような本質的特長は存在しないのである。「ゲーム」だけではない。「数」の本質も、「生命」の本質も、「言語」の本質も、「科学」の本質も存在しない。さまざまな言語ゲームの中で、緩やかな家族をなしたそうした語が、実際に有効に使われている−−それだけなのである。」>
 
 ゲームやスポーツ、格闘技がそれぞれ持っているルールは、その内容が一致していません。しかしルールがあることは確かです。時に、喧嘩や戦争にもルールがあったりします。

 ともかく、私達は、ルールによって行動が拘束され、具体的な相手の行動・言動によって、こちらの動きの選択肢が狭くなります。
 
 言語には、コミュニケーションしている相手の行動を拘束する働きがある、あたかもゲームをしているかのように、という見方から、今度は、相手の行動を拘束するのはなにも音声言語だけではないということに気付きます。
 
 そこで、相手を拘束するものをすべて言語に含めると、色んなものが「広義の言語」になります。表情、身振り、化粧、衣装、室内装飾、間取り、地形、風景、気候風土
 
 そこで本日言いたいことは、姿勢もまた行動に含めると、姿勢を形成しているのは、生物学的、生理学的な条件だけでなく、「言語」でもあるということ。

 幼子の動きを観ていると、柔らかいと思うことがしばしばあります。関節可動域が、必ずしも大人より大きい訳ではありません。その柔らかさは、自己拘束の少なさのように思います。ありきたりの表現をすると、「人目を気にしない動き」だから柔らかい、大人は意識的、無意識的に人目を気にし、自分で自分の動きを規制してしまい、動きや姿勢が固くなってしまう傾向、行動の選択肢が狭くなってしまう傾向があるとおもいます。

 では、固い動き、固い姿勢、不都合な姿勢、狭くなった選択肢を解消する方法としては、人目を無視することでしょうか、そうではないと私は思っています。先ず、自分の姿勢は、人目を気にしながら生まれている、自分はいつも言語ゲームの中にいるという自覚を持つことだと思います。ルールや人目の無視よりも、自覚が大切と。心理学的な表現だと、性格分析とか、ライフスタイル分析という表現になるのでしょうか。
 そして自覚とは、自分自身において生じていることを、言語にできることだと思います。昔から、何か過ちを犯した時、反省文を書かせるのは、本来はそのためでしょう。
 
< 姿勢もまた行動の一部であり、その姿勢という行動は、生物学的、生理学的な条件だけでなく、広義の言語による拘束から生まれる。姿勢を変えようと思うのなら、この事を自覚すること。>

ここから先は、臨床の世界。

 宣長の歌論を借りて表現すれば
 生物学的、生理学的に規定される姿勢とは、「ただの詞」という言葉による規制。
 「ただの詞」とはちがう別の言葉「あや」にもよって規制される姿勢がある、ということ。「あはれの姿勢」