熊野の森 幽霊草幻想

幽霊草という植物を御存じでしょうか? ギンリョウソウ(銀竜草)というのが正式な名前です。陽の当らない深い森の中で見かける草です。茎も葉も花も、全身が透き通った白色をしています。というのは、葉緑素がありません。光合成しないのです。落ち葉が何年も何十年も降り積もり、腐葉土の層となっているようなところに生えます。最初に出会い、その名前を知らなかった時、私は、なんと清楚な花だと思いました。白雪姫草とつけようとおもいました。

私が最初にこの花に出会ったのは、熊野の森の中です。私は陰陽の滝を経て、松尾の滝を経て、烏帽子岳に通じる山道を歩きました。しかし、途中その道からそれ、登山者などの人の来ない脇道へ入りました。そこで、その花と出会ったのです。私は、深い腐葉土の上に横たわりました。日が暮れ始めていました。そのままそこで眠るつもりでした。
 
 しばらくすると、眠くなり、私は眠りました。そして時をさかのぼり始めました。
 眠りの中で、私は23歳でした。国鉄職員でした。親や周囲の反対を押し切って、仕事をやめ、リュック一つ担いで、東南アジアへ放浪旅に出かけました。
 私はいわゆる団塊の世代といわれる世代に遅れた世代。中学校生の時に、東大闘争をテレビで見ながら受験勉強し、高校生の時には、浅間山荘事件をテレビで見ながら勉強しました。
 また、家族に対する憧れと幻滅が同時にありました。幼い頃から繰り返される親の夫婦げんか、姉への虐待、故郷は好きであっても、父母への想いは、薄いものとなりました。
 一体これからどう生きていったらいいのだろう、日本の外へ行って見つめ直して見たい、そういう思いで放浪旅に出かけ、タイで赤痢になり、死にかけました。
 激しい下痢を何度も繰り返し、どす黒い腸壁が絞り出された後、
 頭とお腹に棒を突っ込まれ、ぐるぐるかき回されるような痛みでした。
 余りの痛さに意識が無くなり、ああこのまま死ぬんだなと思いました。
 それが、急に痛みが止まり、大地に包まれたような感じになったのです。
 今まさに、腐葉土の上に寝ているように。

 どれ位経ったでしょう。枯れ枝を踏みしだく音が聞こえました。鹿、あるいは猪が近くにいるのかな、と思いました。音が聞こえてくる方を観ると、白い服と長い髪が見えました。この時間帯に、道を上ってくるのだから、道に迷っているのではないとおもいました。それにこの道は、道の痕跡はあっても草が伸び、獣道に近く、普通の山歩きなら、途中の分岐点で広く、下りの道を選ぶことでしょう。私は、その人が、意図してこの道を選んだと思いました。そして、この道を選んだ理由が思い当たりました。
 意図が思い当たり、私は思いました。今日は止めよう。

 私はその場に坐り直し、最初は低く、そしてだんだんと声を大きくしながら、マントラを歌いました。
 枯れ枝を踏みしだく音が止まり、私はその止ったことを確認し、何も気づいていないふりをして、立ち上がり、道を下り始めました。声をかけました。
 「こんにちは、、、、というにはもう遅いくらいですね。道を間違えたのですか?この道は行き止まりですよ。さあ戻りましょう。」彼女は、無言のまま、道を降りはじめました。
 
 彼女の意図からすると、蛇など怖くないのでしょう。黙々と私の前を降りていきます。実際、道のすぐわきにシマヘビがいても、ひるむことなく歩いています。
 私は、棒を持って先に歩くことにしました。ハビを見つけると、その棒の先に引っ掛け、谷の方へ落としながら進みました。蛇をよける時に時々後ろを振り返ると、後ろに彼女はいました。
 本道にもどり、陰陽の滝を経、県道に近づいた時、線香の香りがしました。青岸渡寺から漂ってくるには、距離がありすぎます。人影が見えました。花束を山道の斜面に手向けて、線香を焚いていました。
 日が暮れはじめていて、私達はお互いに「こんばんわ」と声をかけました。
 後ろを振り返ると、白い服の彼女の姿が消えていました。