熊野の森の話 乞食僧

 十数年前に書いた文章が出てきましたので、今日はそれをブログに載せます。



 インターネットを始めて2ヶ月余りになります。約20年ぶりに高校時代の友人と連絡が取れ、e-mailが届きました。その中に、「私にはトラウマがあって、安心感を求めてしまう」といった内容が書かれていました。そこで、短いお話を作り送ることにしました。

ある乞食僧のお話


夫婦仲の悪い父母の元で育ったある男が、私が私を好きになれないのは、そして父や母という言葉にいいイメージを持てないのは、私の幼い頃の経験によるものだ、と思いました。男は、仕事を捨て、家族を捨て、自分の漠然とした不安を取り除いてくれるものを求めて乞食僧になりました。
旅をする中で、「トラウマ」というものが心の中にあり、それを癒さなくてはならないという教えがあることを噂に聞きました。男は、それで「フロイト教団」を尋ねました。約十年その教団の元で修行を続けました。教団では確かに心の中にあるトラウマというものを引き出して、それを癒すことを見せてくれたりしました。しかし、一つのトラウマが癒されたと思うと、その影に隠れていた別のトラウマが次から次へと現れてきました。男は、そのことに絶望し、また旅に出ました。

男は大きな町にやってきました。大通りを歩いていると、目の不自由な人が大通りを渡ろうとしていました。しかし、人通りも多く、牛車や馬車が行き交い、なかなか渡ることができません。そこへ大金持ちの商人と政治家が、象に乗ってやってきましたが、彼らは彼らの議論に夢中で、盲人に気づかずに通りすぎていきました。

乞食僧は、その目の不自由な人の手をとり、一緒に向こう側に渡ることにしました。手を握ると、その盲人は「柔らかく暖かい手ですね。」といいました。乞食僧は、盲人に触れることによって、相手の体温と自分の体温を感じることができました。盲人の歩調に合わせてゆっくり丁寧にとそしてしっかりと歩きました。大通りは石畳になっていました。そこで声をかけました。「石畳の上を歩きますよ。少し濡れているので滑らないように気をつけてください。」石畳を歩くと、石の冷たさ、硬さが足の裏から伝わってきました。今まで石畳などどこでも歩いてきたのに、初めて歩く道のように感じました。落ち葉の集まったところを歩けば、暖かさ柔らかさが足の裏から伝わってきます。喧騒に混じって、小鳥の声を聞き分けることもできました。さらには遠くの森に咲く百合の香りも感じました。

道を渡り終えたとき、盲人は神の姿になりました。「私と共に道を渡っていたとき、あなたのトラウマはどこにありましたか?もしあなたの言うトラウマがあなたの中にあるとしても、何も持たない乞食僧のあなたは私をこのように導き援助してくださいました。同じ時を楽しく過ごすことができました。」
乞食僧は、トラウマがあるとも無いとも言わなくなりました。今の私にできることは何だろうと考え、そして新たな一歩を踏み出しました。


 私達は、幸せとか人生の充実は、大きな成功をしたときとか、大きな荷物を下ろした時にやってくると思いがちです。例え大きな荷物を背負っていたとしても、小さく一歩踏み出す時、そこに充実があるように思います。