姿勢と意識

「意馬心猿」という言葉は、
私達の「意」識はまるで荒れ狂う「馬」の様、
「心」は酔っぱらった「猿」の様
ということからきているらしい。
 
瞑想をして、自分の意識や心を観察してみると
意識や心が、刺激によって、あっちこっち彷徨うのが分かる
 
普通、私達は私達の人格は一つのように感じていたりするが
瞑想すると、複数の人格・ペルソナがあるように感じる
 
例えば、今のような寒い朝、目が覚めても
なんやかんやと布団の中にいる理由を見つけ出しては
布団の中でぐずぐずしている自分がいる
 
それを、「えい!や!」と起きだして、布団から出てみると
からだは同じでも、実は、その意識はずいぶん違っている
 
心理学で、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだというみかたがあるようだけど、
ぐずぐずした心があるからいつまでも寝ているのではなく、
いつまでも寝ているから、ぐずぐずした心境になったりする
 
いつまでも寝ている自分、起きて活動をしている自分
ぐずぐずいつまでも寝ている自分から、起きだす自分に切り替わるには
そのどちらをも知っている自分が目覚める必要があるように思う
 
と言っても、それらは別の自分でもないのだけど。
 
姿勢によって、意識が変わったりすることを
体験として知っておくことは大切であると思う。