(科学的言語と芸術的言語による)苦しみの解決

(科学的言語と芸術的言語による)苦しみの解決


「苦しみの解決法」という言葉を聞いた時、多くの人がイメージすることのひとつが医学ではないでしょうか。
仏教では、生老病死を四大苦と言います。そのうち、病気による苦しみ、特に肉体に関する病気の解決法として現代人が、思い浮かべるが、医師、病院、医学技術、医療科学ではないでしょうか。
 肉体だけではなく、心の、あるいは精神の、魂の病についても、私達は、今では科学に基づいた医学をそのよりどころとするのが一般的であるように思います。
 
 心理学と言えば、多くの人はフロイトを思い浮かべ、ユングを思うのでしょうか。彼らにしても、根底にあったのは医学モデル、科学モデルであったと思います。こころの病気の真の原因を科学的に突き止め、その原因を除去、あるいは変化させることによって、病気は改善されると。
 
 ものごとの成り立ち、変化を説明し、更に変化予測もし、更にその変化を自分たちにとって都合のよいものにしようとした時、新しく登場した「科学」はそれなりに大きな力を発揮しました。
 
 唯一絶対の科学的真理の存在を信じ、科学的真理が、神々にとって代わりました。
 「信仰」よりも「理性」が大事とされました。
 
 しかし約百年から二百年の歳月を経て、科学的真理も絶対とは言えなくなってきました。
 
 信仰や迷信という眼鏡をはずし、裸眼で物事を客観視すれば、真実真理が現れると思っていたのが、「客観」や「科学」もまた、一つの眼鏡であることに気付いたからです。
 
 私達は、目を通して、五感・六感を通してこの世界を観ているだけでなく、言語を通して世界を観ていることに気付いたからです。
 
 この世の出来事、成り立ちを認識し、説明し、操作する時に、私達は言語を使います。
 
 その言語は、科学的な言語と文学的・芸術的言語に分けることができます。
 
 一時期、科学的言語だけでこの世の出来事成り立ちを説明できると思っていたのですが、その科学的言語が、自らの限界に気付いたのだと思います。
 
 私達は、科学的言語による科学の目でこの世界を観ていると同時に、芸術的言語による「物語の目」でこの世界を観ていると。
 
 科学的であろうとした、フロイトユング。しかし今振り返ってみると、フロイトフロイトの物語でこの世界を観、説明しようとしています。ユングユングの物語でこの世界を説明しようとしています。
 
 唯一絶対な真理があることを前提とし、科学的な言語、科学的な視野で、私は聖書を批判していました。しかし、聖書は科学的言語で表現されたものではなく、芸術的言語で表現されたものという見方に立った時、聖書物語は私にとって身近なものとなりました。
 
 そして、その物語は、「私の聖書物語」であると思っています。千人人がいれば千のそれぞれの聖書物語があると思っています。
 
 仏教それもチベット仏教チベット密教に出会っていなければ、聖書物語との出会いはもっと遅かったと思っています。仏教の六波羅蜜、なかでも禅定と忍辱の体験や、一遍上人踊念仏南無阿弥陀仏があればこそ、出会いが早くなったと思っています。