ことばのことなど

 大人の人に、「ジャガイモを買ってきてね」と頼めば、ジャガイモを買ってくるでしょう。リンゴを買ってくることはないだろうし、ましてや、たわしを買ってくることはないでしょう。(フランス語なら聞き違いで買ってくる恐れがあり得ます。フランス語で、「りんご」はpomme (ポム)。「じゃがいも」のことをpomme de terre(ポム ドゥ テール/「地面・土のりんご」)と呼びます。pomme d’amour、ポム・ダ・モール。愛のリンゴとはトマトのこと)
 
 そういった経験から、ものにつけられた名前は、そのものを表している。そのものの本質を示していると思いがちです。しかし、ものの名前は、ラベル・記号です。
 
佐藤信夫氏が著書「レトリック感覚」講談社学術文庫のなかでこのようにのべられています。

<ものをその名で呼ぶ、という率直な表現の美徳をおしえる教訓が、どこの国にもある。愚かな私たちはそれを額面どおりに受けとってしまったようである。何も、もってまわった、しゃれた言いまわしを工夫するにはおよばない。ものにはたいてい本名があるから、妙に飾ろうとしないで、本名で呼ぶのがいい、・・・という、俗物的な耳に入りやすい言語写実主義の教訓が、私たちの楽天的すぎた科学主義=合理主義=実用主義と、さらには女の厚化粧にだまされたくやしさまで一緒くたになって、私たちの言語感覚を狂わせたのである。
 私たちはいつの間にか、言語を、じゅうぶんに便利な、コミュニケーションの道具だと信じはじめていた。−−作文も手紙も、心で書くものであるから、思ったことをすなおに正直に書けばよろしい、気取る必要はない――ことばは心を伝えるものであるから、形式にこだわるにはおよばず、思うままに書けばよろしい、古い形式などはどしどし捨てたほうがいい−−といったたぐいの、率直と自由、それぞれ45%ほどの真実をふくんだ教訓が奇妙に加算されて、私たちの頭を90%もつれさせた。その結果、言語は、技術的苦労なしに、すなおに正直に忠実にものごとを記述しうる道具である、という恐るべきうそを私たちは信じこんだのである。
 森羅万象のうち、じつは本名をもたないもののほうがはるかに多く、辞書にのっている単語を辞書の意味どおりに使っただけでは、たかの知れた自分ひとりの気もちを正直に記述することすらできはしない、というわかりきった事実を、私たちはいったい、どうして忘れられたのだろう。本当は、人を言い負かすためだけではなく、ことばを飾る為でもなく、私たちの認識をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要だったのに。(25〜26頁)>
  
 音・記号は伝わっているけれど、意味も伝わっているとは限らない、伝えようとしたこと以外が伝わっている恐れがある、ということを自覚するのは難しいことです。