熊野じぬし(痔主)倶楽部

熊野じぬし(痔主)倶楽部
  
 <設立趣旨>
 私は、30数年来「じぬし」でしたが、平成19年4月に、レーザー手術をし、地主から解放されました。手術をせずに、「じぬし」から解放されるに越したことはありませんが、手術をすることではやく楽になる道もあります。
 手術を選択しても、やはり、日常生活の工夫や生活態度、自然治癒力が大切です。
 私の体験が、私と同じような「じぬし」さんの役に立てばと思って、この倶楽部を設立しました。開放的にお話し合いが出来ることを願っています。
 
 
 <私の痔暦書> その1 長期の痔暦
 
 私が最初に痔になったのは、19歳のときで、
切れ痔でした。
 比叡山で、短期の断食をし、断食から普通食に戻すときに、重湯から徐々に普通食に戻すのではなく、生野菜を大量に食べ、下痢を起させるという方法を教わり、実際そうしました。その結果切れ痔になりました。
 
 24歳くらいの時だったと思いますが、国鉄(現在のJR)を退社し、東南アジア放浪の旅に出かけ、タイで赤痢になってしまいました。腸壁がどす黒く流れ落ち、激しい頭痛と腹痛、あまりの痛さに気絶してしまいました。
 どうにかこうにか、日本にたどり着き、3週間程、町立温泉病院で隔離されました。
 その体験も、痔に結びついていると思います。
 
 赤痢から回復した私は、色々な事情や想いがあって、地元の定置網の漁師になりました。寒い日にも、ゴムの合羽姿で、地べたに座り、網の繕いをしたりしました。
 この頃から徐々にいぼ痔になったとおもいます。
 疲れるような作業をしたときに飛び出し、押し戻せば元に戻る、そういったいぼ痔だったと思います。
 
いぼ痔が大きくなり、更にしんどい作業をした後、押してもなかなか戻らないようになり、排便のとき出血がみられるようになったのは、ボランティア活動で忙しくなった頃からです。寒い中、屋外での活動もしばしばありました。が大体は、3.4日で出血は止まっていました。(2001〜2005年頃)
 
2005年の年末頃にも、出血がありました。その頃、坂道を歩くと、足が思うように進まない、走ろうにも走れない、という症状が始まりましたが、てっきり心臓のせいだと思っていました。
父が、長年の狭心症で、1993年に67歳で、心筋梗塞で亡くなっていたからです。
 
この頃から、よく自分の死について考えるようになりました。
60歳くらいまで生きたらいいか、などと考えていました。
自分の人生を振り返り、精神的には、ほぼ満足していました。
 
痔に関しても、心臓に関しても、診察してもらうよう、しばしばつれあいからは言われていたのですが、「自然の成り行きに任せるんだ」「からだにメスは入れたくない」と返事して、耳を貸しませんでした。
いぼ痔だけでなく、いこじ(依怙地)になっていました。
 
 2006年の6月に、一日のバス研修旅行から帰ってから、一段と体調が落ちたように思います。
 耳の後で心臓の拍動を感じることが多くなり、ちょっとした動きでも心拍数が90くらいになりました。
 2007年の2月、たいしてしんどい仕事をしたわけでもないのに、出血が2週間続きました。
更に3月にも10日間出血しました。まぶたの裏が急に白くなりました。
単純に計算してみると、合計約700ccくらい出血したと思います。
 
こんなに出血が続いても病院へ行こうとしない自分を見つめながら、「普通の人なら、2.3日出血した時点で、医者に見てもらうだろうな」「自分は異常だな」と思いつつ、それでも診察してもらう気にはなりませんでした。
3月23日、仕事中に急激にガクンと、体調が落ち、からだが重く、異変が生じたのを自覚しました。それでやっと、診察してもらう気になりました。
しかし、痔の手術を受ける気持ちはなくて、てっきり心臓が悪いと思っていて、「心臓の手術といわれたらどうしようかなあ」なんて考えていました。
 
 
<私の痔暦書 その2 直前の状況>
 心臓だと思っていたので、新宮市にある病院の循環器科の診察を受けました。
 朝早く出かけ、受付は外来1番目でした。先に、尿検査や心電図検査などを済ませたのですが、11時になっても診察の順番が回ってきません。
 あまり遅くなったためか、11時半頃、特別に内科の方へ廻されました。心電図には問題が無いといわれました。それで、まぶたの裏を見せ、貧血になっていることを伝えました。
 血液検査を受けることと、別の内科医の診断を受けるように言われました。
 
 看護婦さんから「結果が出るまで30分は待って下さい」といわれたので、きっと1時間以上かかるだろうと予測して、昼ごはんを食べることにしました。
 結局診察は、3時を過ぎてからになりました。
 診察は、先程とは別の医師で、触診は無く、ヘモグロビン値4.9と検査室から結果が届いていました。(男性の正常値の約三分の一の値です)こんなに低いのは長期にわたってどこかからの出血があるからだということで、胃カメラと大腸の内視鏡検査を勧められました。大腸の内視鏡検査を申し込んだところ、2週間先といわれました。
 鉄剤の処方とか点滴はありませんでした。つれあいが、薬を出してもらえないのかと尋ねたところ、検査が済んでから、といわれました。
 
 診察室から出て、ああこのまま何もしなかったら、
又出血し、ほんとに死んでしまうな、と思いました。
 
(ほんとに死んでしまうな、と思った瞬間、「もっと生きなさい」という声なき声々が聞こえました)
 
 自分では、こんなにヘモグロビン値が下がったのは、痔の出血があったからだと思い、これ以上この病院にかかるのは止めにして、新宮市のK医院で痔の手術を受けることを決めました。K医院のことは、以前にインターネットで調べてありました。
 大腸の内視鏡検査も、断りました。
 直腸癌の可能性もあったのですが、検査が2週間先であったし、3日間の食事制限や、下剤を飲むこと、下痢による出血、体力低下などを考えると、手術の方が先だと思ったからです。
 
 直腸癌の不安が残っていたので、次の日、親しくさせてもらっているY医師の診察を受け、相談しました。Y先生は、直腸の内診・触診をして下さり、痔の手術を勧めてくれ、薬も処方してくれました。
 次の日、K医院へ行って、手術の申し込みをしました。K先生はとても優しく、きちんと説明をしてくれますし、話も聞いて頂けました。勇気づけられ、信頼感を感じました。又、看護士さんたちも親切丁寧で、色々な心遣いを感じました。手術日は、
4月2日の月曜日になり、それまで毎日点滴を受けました。
 
<私の痔暦書 その3 手術の様子>
 手術は午後からの予定でしたが、色々な検査もあったので、午前10時頃K医院へ行きました。
 検査も済ませ、午後より手術になりました。麻酔の注射の方が痛いのでは、と思っていたのですが、麻酔の針も少しチクッとした感じで済みました。
 意識ははっきりしていて、先生と話をしながら手術を受けました。痛みは全然ありません。普通は約20分で済むところを、5ヶ所きったので約1時間かかりました。 
一泊だけ入院し、次の日の午前中退院しました。
 
<私の痔暦書 その4 術後の様子>
 5日間は連続して通院し、点滴を受けました。日一日ごとに楽になりました。
 下剤も5日間分出して頂いたのですが、2日と半日分だけを使い、後は飲みませんでした。
                  
<私の痔暦書 その5 内緒のこと>
 地主さんで、もし手術を受けるつもりなら、
手術日が決まってから、話したいことがあります。でもここには書きません。
 
<費用のことについて>
 保険適用です。一泊の入院で、個室料金と共に手術代合わせて5万数千円でした。
<術後の工夫 あれこれ>
せき対策
術後数日は、せきをしても痛かったりしました。
このせきを、止める方法があります。文章では書きづらいので直伝します。
下剤とバイエムコーソ
術後、便を柔らかくするために下剤が処方されます。
と同時に、下剤が効き過ぎたりすると不安になります。
下剤の量を減らして、代わりにバイエムコーソを飲みました。
バイエムコーソは、酵素と食用微生物(麹菌、酵母菌など)で出来た食品です。
馬油
術後、肛門の周囲がどうしても腫れたりします。
軟膏やヘパリン類似物質が処方されますが、馬油も傷や腫れにいいと思います。
黒田光
同じく傷や腫れが早く癒えるように黒田光線を浴びました。
湯たんぽ
手術前、一日目の点滴の後、熱が出た一方、
強い寒気がしました。湯たんぽが重宝しました。
かかりつけのお医者さん
常日頃から、信頼のおけるお医者さんと仲良くお付き合いさせて頂くことも大事です。
                      
「痔」といっても、一人一人その来歴や、状況、状態が違うと思います。
そういったことを踏まえて、ご質問がある方は、どのようなことでもいいのでお尋ねください。
 
649−5331 天満823−5 熊野健康接骨院
         0735−52−1969    自宅 54−0124
 
<ゆるやかに死にいそいでいた>
 豊田勇造さんの「花の都ペシャワール」の歌の歌詞に、「いきいそぐこともない、死にいそぐこともない」というフレーズがあります。振り返ってみると、ゆるやかに死にいそいでいたと思います。ゆるやかに死にいそいでいたから、段々症状は重くなるし、そんな症状だから、気持ち的に死にいそいでいました。悪循環ですね。確かに人は必ず死にますが、「生きろ生きろ」という声なき声々があちこちから聞こえます。

  
というわけで、レーザー手術をして、明日で1ヶ月になります。
順調に回復しています。