仏教の救済力 三輪清浄(三輪空寂)の布施

「受け取る姿にこそ、仏の真髄がある」と、友人のお父さんがいつも言っていたことを思い出す。
 
私は、人から施しを受けることが大の苦手だ。
また、お願いをすることも苦手だ。
きっと、幼い頃、心の深いところで、「人を頼りにしてはいけない、頼りにするよりも、我慢すべきだ」という決心をしてしまっているのだろう。
 
人から親切にされて、「ああ有り難い」と思うが、どこか居心地が悪い
 
心の底の決心が、見えない壁を作ってしまっているように思う。
 
布施は、今ではお布施といって、一般の多くの人々は、在家の人が僧侶に渡す金品のことだと思ってしまっていたりするが、布施は、仏道修行者が修めるべき修業のひとつだ。
 すなわち布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧六波羅蜜のひとつだ。
 
仏教がインドから中国に伝わった時、中国の修行者達は、仏道修行に瞑想を重視したものの、布施は重視しなかった。その中国から、日本へ仏教が伝わったのだから、日本で、布施本来の意味が忘れ去られるのも無理はない。
 
江戸時代に始まった檀家制度も、日本仏教を駄目にしたように思う。
仏道修行における布施は、三輪清浄の布施といって、本来無我行のひとつであり、また、仏教誕生時代には、一般民衆にとっては、やはり功徳を期待して、仏教修行者に限らず修行者に布施をするのが文化だったろう。
 
現在の日本で、布施行を実践している僧侶はどれくらいいるだろう。一般民衆から慕われ、功徳を期待されるような僧侶がどれくらい居るだろう。
 
京都の三條とか四条の大橋の袂には今も、修行僧の姿で立ち、笠で顔を隠し、浄財を受け取っている僧侶が居るが、一体彼は普段どういう暮らしをしているのだろう。
 
ともかく、私は、受け取ることが苦手だ。苦手にしてしまっている「我(エゴ)」がある。
お願いするよりも、じっと耐えてきた。お願いをしていないのに、何かをプレゼントされると、どぎまぎしてしまう。遠慮なくねだり、遠慮なく受け取れる人に憧れる。