遅く始めたウクレレ 上手く弾けないから楽しい

 ひとがこの世に生まれたとき、話すことも、立つことも、自分の排出物を処理することもできません。お腹が空けば泣くし、おむつが汚れれば泣きはしますが、それでも世話する人に囲まれた新生児は、「いろんなことができない」ということで悩み苦しんでいる様子はありません。
(と言っても、新生児死亡率1000人に対して52人のソマリアや、乳幼児死亡率が2006年に270だったシオラレオネのことは、できるできないの問題ではなく、生存そのものについての問題です。)


 成人式を過ぎたからといって色んなことができる訳ではありません。ある能力については、充分世間で通用するけれど、ある能力については乳幼児並みということはよくあることです。


 新生児や乳幼児が色んなことができなくとも悩み苦しんでいる様子がないのは、一つには他人と較べないからということが考えられます。(理想の自分と現実の自分を較べないと言い換えても同じです。「これくらいのことはできて当然だ。だけど自分はできていない」と較べることが、苦しみとなります) 乳児は、できないことへの視点(劣等感)がそもそもなくて、できるようになったことを素直に喜び楽しんでいます。


 他の人と較べるような年齢になっても、算数や英語ができないと本人や保護者が困るけど、絵を描くことやピアノを弾くことなら、本人も周りの人もさほど苦しまないということがあります。生きること、生活費を稼ぐことにすぐに結びつかない能力については、本人も周りの人もあまりそれを理想とはしないからです。
 しかし、生きること、生活費を稼ぐことに直に結びつかないからといって能力をのばそうと思わないこと、思ったとしても最初の困難で諦めてしまうことは実にもったいないことです。


 というのは、例えば絵を描くとか楽器を演奏するという能力を育てるとき、必要な技能を育てているだけでなく、技能育てる技能(コツ)をも同時に学んでいるからです。つまり何かを学習すると同時に、学習についての(メタ)学習をしているからです。
呼吸を観つめる瞑想を続けていると、呼吸法という技術が身につくだけでなく、呼吸法を身につけようとしている自分を別の次元から見ている(メタ)自分の視点が生まれます。

 呼吸法だけでなく、絵を描くこと、楽器を演奏すること、そして武道やスポーツのエクササイズでは、瞑想と同じようなことが生まれます。


 ある技能を修得するには、熱心な練習、反復練習も大切です。しかし、それだけでは壁にぶつかります。時には、怪我にも結び付きます。そこで、努力をやめてしまうことも多いです。


 その壁を超えるには、学習についてのメタ学習、努力している自分を違う次元から見つめるメタ自分の視点が大切になってきます。独学で越えていくひともいますが、そこで次元の違う視点からアドバイスしてくれる人、刺激し合える人に出会えるかどうかで、そこから先の道のりが違ったりします。


 幼子のように楽しむこと(止)、瞑想者のような視点を持つこと(観)、両方大切だと思います。