「絶望」ということばがあります。しかし、言葉一般がそうであるように、一人一人の絶望の中味は違うだろうし、こういうことをいうとジェンダーといわれると思いますが、男性と女性でも違うように思っています。
幼子を胸に抱き、乳を含ませている姿のなかには絶望はないように思うのです。というか、母性とのつながりを失ったこと、抱かれているという感覚が無くなったことを、私は絶望と言っています。
では、母性とは何なのか? 母性の定義などできないと思っています。ただ、定義はできなくとも、今この時、私の中に母性があると感じているか、感じていないか、母性と繋がっていると感じているか、繋がっている感じがないか、その感覚はあると思うのです。
母性などという言葉を使うと大袈裟かもしれません。これもまた、ジェンダーと叱られそうですが、男は、いくつになっても、抱かれることで母性とのつながり感を持ち続けることができるように思っています。女の人のことはわかりません。他の男の人についても、これは単に、私だけのことかもしれません。
人と人が抱きあえる環境、抱き合える関係を誰もが持てるわけではありません。また、結婚生活をしていて、セックスを普通にしていて、お互いの欲が満たされていて満足していても、それが「抱擁」となっているかどうかはわかりません。
つまり、私がいうところの抱擁は、絶望あっての抱擁です。
ここでいう絶望とは、自分の愛は、とどのつまり無私の愛(アガペー)では決してなくて、私欲の愛(エロス)であるという自覚のことです。神の存在を、心の底から信じている訳ではない、実感がある訳ではない、という自覚のことです。
それこそ、神を求めて泣けばいいのかもしれません。母を求める幼子のように。
三好達治は
< 海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
< そして母よ、仏蘭西人(フランス)の言葉では、あなたの中に海がある。
とうたいました。
私も、先ほどまで故郷の熊野の海で、石と語らっていました