生と死と 近代の疎外 ドゥルーズと坂口安吾と渋さ知らズ

現代人にとっては、決められた時間に出退社して、生産性向上の努力をし、大量生産し、又大量消費することは、ごく普通の生活だと思います。
   
しかし、そういう生活は、じわじわと、まるで人間が機械に使われるような生活、人間そのものが道具・手段のように、機械の一つの部品のように扱われる生活になりがちです。これを「疎外」と云ったりします。
   
そうして、あまり自覚症状のないまま日々が過ぎていき、ある日レベルを超えてしまって、症状があらわれたりします。
 
疎外を乗り越えるために始まった臨床心理学のあるものは、もう片一方で、むしろ疎外を助長してきたかもしれません。
 
(例えば、「クリトリスで感じる女性は、正常な発達を遂げていない女性である」とみなす流派があるそうです。)
  
いかにしてこれらの疎外を超えていきましょうか?


   
昨日引用した坂口安吾の「FARCEに就て」の中で、ファルスについてこう述べます。
   
< 一体、人々は、「空想」といふ文字を、「現実」に対立させて考へるのが間違ひの元である。私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想に費してゐるものだ。人間自身の存在が「現実」であるならば、現に其の人間によつて生み出される空想が、単に、形が無いからと言つて、なんで「現実」でないことがある。実物を掴まなければ承知出来ないと言ふのか。掴むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるといふのだ。大体人間といふものは、空想と実際との食ひ違ひの中に気息奄々として(拙者なぞは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚ない生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒(べらぼう)な儚なさのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸ひにして人である、と言ふやうなものである、人間といふものは。
   
 単に「形が無い」といふことだけで、現実と非現実とが区別せられて堪まらうものではないのだ。「感じる」といふこと、感じられる世界の実在すること、そして、感じられるといふ世界が私達にとつてこれ程も強い現実であること、此処に実感を持つことの出来ない人々は、芸術のスペシアリテの中へ大胆な足を踏み入れてはならない。
   
 ファルスとは、最も微妙に、この人間の「観念」の中に踊りを踊る妖精である。現実としての空想の――ここまでは紛れもなく現実であるが、ここから先へ一歩を踏み外せば本当の「意味無し(ナンセンス)」になるといふ、斯様な、喜びや悲しみや歎きや夢や嚔(くしゃみ)やムニャ/\や、凡有(あら)ゆる物の混沌の、凡有ゆる物の矛盾の、それら全ての最頂天(バラロキシミテ)に於て、羽目を外して乱痴気騒ぎを演ずるところの愛すべき怪物が、愛すべき王様が、即ち紛れなくファルスである。
知り得ると知り得ないとを問はず、人間能力の可能の世界に於て、凡有ゆる翼を拡げきつて空騒ぎをやらかしてやらうといふ、人間それ自身の儚なさのやうに、之も亦儚ない代物(しろもの)には違ひないが、然りといへども、人間それ自身が現実である限りは、決して現実から羽目を外してゐないところの、このトンチンカンの頂天がファルスである。もう一歩踏み外せば本当に羽目を外して「意味無し」へ堕落してしまふ代物であるが、勿論この羽目の外し加減は文学の「精神」の問題であつて、紙一枚の差であつても、その差は、質的に、差の甚しいものである。
  
ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しやうとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャ/\であれ、何から何まで肯定しやうとするものである。

ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言つてやんでいを肯定し、と言つたやうなもんだよを肯定し――つまり全的に人間存在を肯定しやうとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を、永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。>

生の肯定という点から、ドゥルーズの著作も読み進みたいです。
その入門書としては、
ドゥルーズ―解けない問いを生きる 」檜垣 立哉 (著)
 
そしてアマゾンのカスタマーレビューに、大野泰男 という人がこう書いています。
  
< 卵(ラン)が生成していくイメージ。生成の流れの中で解けない問いを生きる。光に対応すべき現場がまずある。解けない問いを生きた結果、暫定的な解として視覚を得る。種をまたがって広く認められる事実だ。
   
まずは、システムが生成していく生を肯定する。システムが生成する流れがあって、個体が位置づけられる。同時に、個体がシステムを支えるという二面性を有する。個体は、どれとして同じものがない。しかし、それがアイデンティティを支える契機としてはとらえてはいけない。逆に、生成するシステムの内側にあって、解けない問題を解く。
    
個体としては、現場で解けない問題をひたすら解く。現場というのは、パラドックスに満ちていて、不条理なことも多い。しかし、システムが生成する流れは、ポジティブに肯定されなければならない。ゆえに、個体はシステムを支える、特異な存在である。
    
機械がこわれる、出かけるときにつまずく、言葉がからまってしまう。こういう場面では、神や世界や自我といった理念が要請される。理念とは、知覚できないし、経験もできないものだ。現場は、こうした「出来事」に満ちている。
   
メロディーを分解しても何もわからない。分解してもメロディーがなにかということはわからない。同様に、こうした「出来事」にあらわれる
   
システムの生成を支える力を理解することはあやまったアプローチだ。解けない問いなのだ。しかし、システム生成の流れの現場は、こうした問いに溢れている。メロディーの内側に身を置いて、解けない問いを解き続ける。こうしたイメージが示唆する世界は広くて、深い。>

 「落葉」「枯葉」といえば、秋や冬だけのものだと思っている人が多いように思います。
 
 私の住んでいる紀伊半島の雑木林を見ればわかることですが、青葉が茂っている中、落葉は年中起こっています。
 
 私達の身体だって同じことで、胃壁や腸壁は、次々「落葉」しています。
   
 そうやって、システムは生成を続けていく。
 
そして、システムは階層的になっていて、私はいつか落葉するが、宇宙が落葉するわけではない。あるいは宇宙も落葉するかもしれないが、メタ宇宙の中での話。
 
 だから、私は、宇宙が夢見た夢のひとつだと想っている。
 肯定する力が、夢見る。
 
何でもありの、価値相対のことを言っているのではなく、何でもありなら、それこそ坂口安吾のいう「駄洒落」になってしまう。

最近「渋さ知らズ」という音楽・ダンスグループの存在を知りました。近代の疎外といったものも映像からは感じるのですが、同時に元気も出ます。
 
中でもナーダムNaadam という曲が好きです。
 
ナーダムとは、モンゴル語でお祭りという意味だそうです。
モンゴルの各村にはナーダムがあって、祭りの最後には、村人全員で楽器などを持ち出して、村長の指揮で大演奏会を開くようです。
 
http://www.youtube.com/watch?v=z4qtSR-lwkw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=eLF-6jNmYIA
 
ナーダムという言葉は知りませんでしたが、コミューン運動の最中には、楽器を持ち出して即興で楽しみました。
 
このナーダムをきっかけに、各地で新しいナーダムを生んでいったら楽しいでしょうね。
 
目下、ピアノ、ギター、ウクレレジャンベ、篠笛を少しずつ触って、備えています。