投影と脱投影

k1s2011-11-21

般化 弁別 認識 一般化 削除 歪曲 パターン 投影 演繹 帰納
違いが判る 創造 発達 上達 言葉の獲得 学習 成長 ベイトソン 階層
デジタルとアナログ 分離と連続 陰と陽

 「弁別と般化」という言葉は、日常の中ではあまりなじみのない言葉だと思います。何らかの理由で、学習理論を学び、その中で出会うことが多いと思います。
 
 「弁別と般化」という表現をすると、二元論的に弁別と般化が別々に対立的に起こっているように思えてしまいますが、これがなかなか、複雑な関係にあると思います。
 
 犬のトレーニングにも、この弁別と般化という言葉が使われるようです。
 
 愛犬が「坐れ」を学ぶとき、彼犬(彼女犬)と人間は、「伏せ」と「坐れ」を弁別しなくてはなりません。と同時に、「しゅわれ」「すーわれ」「すわれー!」「suware」を「座れ」に般化することも学ばねばなりません。
 
 犬さん達との間で使う場合は、「坐れ」といった言葉は、信号であり、坐れの言葉の指し示す意味がほぼ確定していますが、人間が使う言葉の場合は、信号であると同時に、記号ともなって、例えば「いやよ」とか「ばか」という言葉の意味は、文脈によって違ってきたりします。般化と弁別のレベルはより階層的複雑になります。
 
 あることにおいて、上達するには、「違いが判る」ことが大切です。
 
 じゃあ、違いが判るということの更に詳しい過程はどうなっているのか、そこに興味があります。
 
 世界の側には、細かい違いがあって、はっきりとした境界があって、それをわれわれの感覚器官がそのままその違いをとらえることができる、と単純に思ってしまえば簡単ですが、西洋の近代の人々が、我々の認知の仕組みを解明していく中で、そう単純でもないということをいろいろ述べています。(東洋の瞑想者ははるか以前にそのことを観察していました。)
 
 まず、私たちの感覚器官に限界があり、また認知システム全体が、感覚器官に影響するというのです。(例えば、観察の理論負荷性、公理系、あばたもえくぼなど)
 
 言語が私たちの認知システムに深くかかわっているのは、周知のことでしょうが、言語は、連続した世界全体から、部分を「恣意的」に切り取るのですから、それは「分離・デジタル」ということから逃れられません。
 
 未来を予測するとき、過去のデータを基に、因果律に従って予測したりするので、どうしても過去にとらわれがちになります。
 新しい出来事に出会っても、新しい人に出会っても、思い込みから判断しがちになります。
 
 つまり人間との出会いにおいては、「投影」といわれる出来事が起こりやすいのでしょう。
 
 だからと言って、人間関係を、認知を、投影同一視でのみ説明するのはどうか?と思っていたりします。
 
 投影という現象は確かにあるだろうけど、投影がすべてではないと思うのです。
 
 あるいは仮に投影から逃れられないにしても、今投影していることの材料になっている元・基がすべてではない、と思っています。見落としがあって、よく見ているとそこが見えてくる、と仮設できると思っています。
 
 過去を参照する機能はとても大切だけど、それに囚われてはいけない
 とこれまた過去から言い継がれてきたことですね