不昧不落 両采一賽 その1

k1s2011-10-15

 今回台風12号で妙法山に降り注いだ雨は、山麓の地区に甚大な被害をもたらしました。 妙法山は、下から見ていると、ずいぶん昔からずっと変わらず、杉や檜や雑木の森林であったように思ってしまいます。
 しかし、山に分け入ってみると、そこには、かつての集落と多くの棚田の跡があります。
 

お墓がありました。
大法玄道信女という戒名が刻まれており、寛政八丙辰天とあります。
1796年を表しています。
 

 寛政といえば、日本史の教科書には、必ず寛政の改革が出てきます。寛政の前の年号は、天明で、天明の大飢饉がありました。天明の大飢饉とは、江戸時代中期1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉です。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世史上では最大の飢饉です。
 

 世界的に観れば、1783年には、アイスランドラキ火山とその横のグリムスヴォトン火山が相次ぎ噴火して、大量の溶岩と火山灰を発生させました。甚大な被害をもたらし、1789年のフランス革命の原因の一つになりました。日本では同じ年に、青森県岩木山群馬県浅間山が大噴火をおこしました。
 

 この天明7年に二宮金次郎二宮尊徳は相模の国に生まれます。尊徳小伝には、次のようにあります。
 

< 寛政3年(1791)尊徳わずかに5歳のとき、酒匂川の洪水、堤防を破り、数か村を流亡させた。父利右衛門の田地もまたその被害をこうむり、すべて不毛の地に化す。家もとより赤貧、加えるにこの被害にあい、困難はいよいよ迫った。そこで利右衛門は朝早く起き、夜は遅く寝て、専ら力を開拓に尽し、三子を養ったが、後に、病気にかかりいたずらに年をこえ、家産を尽くして、一生懸命その治癒を求めたが、ついに亡くなったので、母子の悲歎慟哭はいいようがなかった。村人このために涙を流した。当時、尊徳14歳、弟はまだ幼少だったために困窮はいよいよ極まった。尊徳すなわち朝早く起き、深山に入って、あるいは柴を刈り、あるいは薪を刈って、これを町に売りに行き、夜は縄をない、ワラジを作って僅かな時を惜んで、労働し心を尽くして、母の心を安らかにし、二弟を養う事に励んだ。そして薪を採りにいく往き返りにも大学の書を懐にし、途中これを暗誦して怠らなかった。これが尊徳が聖賢の学に志した初めである。享和2年4月、母もまた病気になった。尊徳は大変嘆いて、日夜帯をとかないで、看護に力を尽くしたがその努力もついに空しく亡くなった。その時尊徳16歳。悲しみのあまり体をそこなうほどであった。それだけでなく家財田地はすでになくなり、残ったものはただ空屋だけだった。二人の弟を慰め、悲んで泣いてどうすればよいか分らなかった。親族は相談して、二人の弟を母の生家に預けて尊徳を近親万兵衛の家に寄食させた。>
 

 ラキ火山の爆発は、フランス革命につながり、天明の飢饉は、のちの明治維新につながっています。
 

 2011年の東北大地震津波原発事故、台風12号によって、私達は大きな被害を受けましたが、かつての歴史がそうであったように、新たな時代につながっていくように思います。そして、新たな金次郎も輩出するように思います。