「記号論」とか「写像論」という言葉だけを聞いても、それが日常の暮らしとどのように関係しているのか、イメージできる人は少ないかもしれません。
試しに「写像」「写像論」「写像理論」でインターネット上を検索してみると、複雑な数式を伴って、哲学や数学の頁が提示されます。
それらの数式を観ると、私の写像という言葉の使い方は、間違っているかもしれません。
ですので、ここでは居直って、以下は「私の写像論」「私の記号論」から「私の」を省略していると受け取ってください。
(私の)写像論的に「言葉」を理解すると、例えば、愛について、「実体としての愛」がまずあって、そこに「愛」という言葉を写像し、そこから、「愛の感情」「愛の行為」が生まれると捉えます。
因果論ともいえます。「実体としての愛」が因としてあることによって、果としての、愛の感情や愛の行為が生まれる、と。
ここで一気に仏教の話に移ります。
今手元に増谷文雄著「智慧と愛の言葉 阿含経」 筑摩書房刊 があります。
87頁に「縁起」とあり
<「これあるに縁りてこれあり これ生ずるによりてこれ生ず
これなきに縁りてこれなし これ滅するによりてこれ滅す」
相応部経典 一二、二一、「十力」>
私がかつて属していたある研究・啓蒙団体のHPには
「相依性」として
「これあるによりて かれあり これ生じるによりてかれ生ず」
と解説していました。
元のパーリ語がどのように書いているのか調べる必要がありますが
漢訳では
「因是有是、此生則生 此滅則滅 此無則無」増一阿含経 四二、三
となっているようです。
ここに二つの蘆束があって、お互いにもたれ合って立っている時、確かにこちらがあちらにもたれ、あちらもこちらにもたれているから、二つの蘆束は一つの立っている束として現象しています。 「これあるによりてかれあり」
しかし、これは、これが原因としてあるから、かれがある訳ではありません。
これとかれを要素に分けてみると、これとかれは相依していますが、全体を観ると
(メタ・全体としての)これあるによりて(メタ・全体としての)これあり
と私は理解しています。だから、「これありてこれあり」も「これありてかれあり」もおなじことをいっていると。
で、ややこしい話になりますが、愛の話に戻ります。
「これあるによりてこれあり」
実体としての愛があって、愛という感情や愛すると云う行為が生まれるのではなく
「愛すると云う行為そのものが愛である」と
「愛がないから、もうあの人には愛の感情も愛の行為も生まれない」のではなく、「愛すると決め行為した時、愛が同時に生まれる」と私は今理解しています。
これが正しい愛だ、と主張しているのではありません。これが聖書の中のキリストの愛だとも言っていません。私にとっての愛は、そのように変わった、といっています。
「虹という実体があって、七色に光るのではなく、七色に光るから虹という」という見方に変わったと云うことです。
愛とか寛容といった広い心が先にあって、不条理を受け入れるのではなく、小さきまま、弱きまま、貧しきまま、不条理を受け入れます、と決意し、行為のひとつとして言葉にし宣言した時に、愛が、寛容が、救いが同時に生まれる、構成されると。
というわけで、色々事情はあるでしょうが、夫婦仲良くしたい時は、同じ部屋で声を掛け合って、眠ったほうがいいように思います。