自分との対話の瞑想

 自覚し、随分気をつけているつもりであっても、いつの間にか、自分が立てた自分の一生の予定、一日の予定、目の前の予定に縛られていたりします。

どのように予定を立てたところで、世の中、隣人、私自身の心とからだも、予定通りになる訳ではないのに、「ああ予定通りでない。思い通りでない。」と、イライラしたり、落ち込み塞ぎ込んだり、悩んだり、苦しんだり、身動きが取れなくなってしまったりしています。

仏教で云う「苦」の語源は、duhkha(ドゥフカ)「思い通りでない」ということからきていると習いました。

 では、予定を立てずに生きていけるか、予定など捨ててしまえばいいのかというと、社会生活を営む一員としては、そうもいっておられません。 捨てたつもりでも、それも、結局予定の中の一部だったリします。 
 
 やはり、自覚し、自分の予定に気付き続け、固執しない、バランスを取り続ける道になると思っています。そう思っているのですが、ついつい、どうすればいいのだろう、どれを選べばいいのだろうと、悩んでしまいます。
 
 一体、自分自身は、一生の予定について、どういう予定を立てているだろうか?
 
 「いつか必ず老いて死ぬ。」ということが予定表には書かれてあります。一方、「今日は生きているだろう」とか、「明日も生きているだろう」とか「一ヶ月後、一年後も生きているだろう」と何の根拠もなく書いてあったりします。 例え、癌が発見され、「余命3ヶ月ですね」といわれても、「ひょっとしたら半年後も生きているのではかろうか」と思ったりするのでしょう。
 
 私達「人間」は、今この時の刺激に反応して行動するだけでなく、自分の予定表に書かれている文章と照らし合わせながら行動を選んでいるように思います。 「3時の時報だ、お腹が空いたな、さっきケーキを頂いたな、でもダイエット中だから、がまんしよう。」という具合に。
 
 動物達も、「死にたくない」という気持ちはあるのだろうか?とふと思いまし。彼らは、「死にたくない」という思いや、「明日も一年後も生きていたい」という予定ではなく、「苦しいのは嫌だ」という基準で行動しているようにも思います。
 
 となれば、私達人間の場合、苦しいという想いとか、次の行動とかは、自分がたてた予定表とか、「自分自身への言葉の問いかけ」で生まれてくるのではないのだろうかと思います。
 
 「言語の語用論」という学問の領域があって、
 
現代のエスプリ NO454 臨床の語用論 編集 長谷川啓三 という本が今手元にあって、表紙の裏に、
<人は、なぜそのように行動するのか? 解答のひとつは意味(ミーニング)である。人は意味に生きる。その意味形成に深く関わるのが「言語」である。>とあります。
 
< 語用論とはーことばと行動の関係を扱う分野 >
< 広義のことば、それと人間行動の関係を探る分野、それをポール・ワツラウィック博士の提言に習って、言語のプラグマティクス、語用論と呼んでおく。言語学でのそれとはやや定義が異なる。(5頁) >

< 一般にコミュニケーションとは情報の伝達と考えられるが、ベイトソンらが明らかにしたように、情報のもつ他者への影響の側面こそが重要なのである。ベイトソンは、それを、メッセージは他者に情報(報告)と影響(命令)の両方を常に運ぶと云った。(6〜7頁)>
 
 メッセージはその意味内容だけでなく、メッセージそのものが相手の次の行動に影響を与えたりします。
 例えば、「ねえ、昼ごはんはチャーハンにするラーメンにする?」というメッセージには、一緒に食事しましょうという誘いや当然するでしょうと云う命令が含まれていたりします。

 「言語による行動の拘束」があります。
 
<任意のメッセージは、その受け手の反応の選択幅を小さくする>
<受け取られたメッセージは、例外なく、その人なりの翻訳である。>
 
< 発達心理学、それもソビエト心理学の父といわれたヴィゴツキー学派のそれは、言語のその側面を見逃さないで、最重要の研究対象のひとつにしていた。それは、子どもが自分の行動を制御する手段として言語を獲得するプロセスの研究である。(11頁) >
 
 私達は、言語という言葉を聞いた時、音声言語や文章言語を想起し、更に身振りや、ダンス、人によっては絵画なども含めたりするが、言語が、行動を拘束するものであることから、逆に行動を拘束するものを「広義の言語」と拡張することができる。 例えば、衣服、化粧、建築、風景なども。
 
 私が私の内部で使っている言語や、隣人との会話で使っている言語、そして広義の言語が、
時代や環境、風土の文脈が私の行動を拘束していることだろう。
 
 では、もっと具体的には、どのような使い方が、どのような拘束を生み出しているかということ
 
 ある拘束の傾向を感じた時、その相手に、その傾向を自覚してもらうには、どういう言葉づかいをすればいいのか。 
 
 「なぜ?」 と問うことが有効な時と、有効でない時があるように思います。
 「なぜ?」ではなく、「どうすれば?」と置き換える方がいいことがあるように思います。
 
 ともかく、思い通りになる訳でないのに、自覚をしているつもりなのに、ついつい、自分の予定に縛られていたりします。