文脈を読む瞑想

ここに芝居の台本の一部があります。
 
男「お前、馬鹿だな。」
女「ええ、私は馬鹿よ。」

さて、あなたが脚本家だとして、このセリフのやり取りの前後をどう書きますか?
 
一つの例
 結婚することを決めた男女がいた。報告に男の実家に帰った。母は、数年前に亡くなっている。男は一人息子。ところが、父が急に脳梗塞で倒れ、そしてそこで莫大な負債があることが分かった。その負債は、独り息子である男にかかってくる。
 
 男「結婚は取りやめにしよう。」
 女「嫌よ。ずっとあなたと一緒よ。」
 男「お前、馬鹿だな」
 女「ええ、私は馬鹿よ。」

こういう例は、単文の意味は、そこまでの文脈に依存すると云うことの例として、心理学講座でよく使われます。

 あるいは、次の台本ではどうでしょう。
 
 夕方、小学校4年生の息子が、学校から自宅に帰ってきた。
 息子「お腹すいた!」

 さてそこで、それを聞いた母、或いは父のセリフとして、あなたはどう書きますか?

 「そこにおやつがあるわよ。」とか「夕飯がもうすぐだから、少し我慢しなさい。」という類のセリフを書くのではないでしょうか?
 「今夜の阪神の先発は誰だろう。」とか「サッカーと野球のどっちが好きかな?」なんてセリフはめったに出てこないと思います。
 
 これは、心理学でいうところの「言語による、行動の拘束」といいます。
 

 それでは次の台本
 男は、目覚ましを止め、ベッドから起きてきた。台所で冷蔵庫の扉を開け、パックの牛乳をコップに注ぎ、飲もうとした。しかし、飲まずにコップをテーブルに置いた。
 
 さてこの男の行動の文脈はどのようなものでしょうか? 何によって行動が拘束されているでしょうか?
 
 前の晩、男は二日酔いに成るほどお酒を飲んだのかもしれません。前日のニュースで、牛乳には放射能が含まれている恐れがあると聞いたのかもしれません。そういった文脈だけでなく、もっと大きな文脈があります。

 男は、電気の通じる時代に生きています。牛乳もパックに詰められて売られている時代です。

 シベリア抑留と云っても、今の若い人は知らないかもしれません。戦争の戦利品が人間であった時代があります。かつて、国内での戦争の後、日本人が同じ日本人を海外に売っていたこともあります。
 
 意識するにしろ、しないにしろ、私達の行動は、私達の生きている時代の拘束を受けています。 目覚まし時計をかけること、或いは止めること、冷蔵庫から牛乳パックを取り出しコップに注ぐこと、飲まないこと。 これらも、大きな文脈の中での拘束と言えます。
 
 
 グローバル社会といわれ久しいです。生きていくための分業は、国際化しています。私の今の生活の中で、ガソリンのない生活は考えられません。そのガソリンのもととなる石油は、タンカーによってはるか遠くの国からやってきます。
 
 家族や血族、地域社会の中の分業や分離も進みました。核家族化し、個人主義化しています。かつて、テレビは家族間の会話を奪うといわれた時代がありましたが、今では更に一人一人が別々のテレビやパソコンを観ます。
 
 台風が近づいても、心配する人と、心配しなくて済む人がいます。多くの人が農民であった時代は今とは違ったでしょう。
 ヤマモモが沢山実をつけても、いまでは嬉しいのは、昔を懐かしむ大人達です。ヤマモモとはどんな樹か知らない子どもも今では多いでしょう。ヤマモモは、親子の話題にはならないのではないでしょうか。
 
 ものがあふれ、情報があふれるこの時代に於いて、恋人や夫婦の会話は、増えたのでしょうか、減ったのでしょうか?
 話題に繋がる共通、共同の体験は少なくなっているように思います。
 
 趣味にしろ、ボランティアにしろ、市民活動にしろ、子育て、孫育てにしろ、或いはペット育てにしても、期間限定であったり、個人主義化、拡散化していって、心が響き合うような話題になりにくい気もします。
 
 もともと、恋人という概念も、夫婦という概念も、一時代的なもので、新旧の比較のしようがないのかもしれません。かつて、結婚した男女が、お互いに自由に恋愛するのが一般的であった時代や地域があったのですから。
 
 身近な人を選ばなくとも、遠くの人を選ぶことができたりするので、身近な人とは努力して深く付き合おうとは思わなくなっていたりするのかもしれません。

 機械化が進んだことによって、私達は広く浅い知識を必要としているのかもしれません。かつてからだが覚えていたことを、機械が代用することによって、からだを通しての智慧や喜びは薄くなったのかもしれません。例えば、鉛筆を切り出しナイフで削ると云ったことです。
 
 こういった時代の制約や拘束の方が、逃れるのが難しいように思います。拘束と意識化されることも少ないでしょう。
 
 そもそも、何か普遍的な基準のようなものを設定して、それとの比較で価値を決めると云う生き方自体が、価値の決め方のひとつの方法にすぎなくなったのでしょう。
 
 とは言え、アナーキーな何でもありではなく、私は「公理系」というあり方を選びたいと思っています。
 
 自分が前提としている価値体系を唯一絶対としてしまうと、目標は「完全の一致」か「理解」です。「一致」しない時、対立を生みます。

 でも公理系を選ぶと、「響き合う」ことができると思うのです。