「たどり着くところ」は、あるのだろうか? カオスの縁

 岡林信康氏が歌った歌、「自由への長い旅」の歌詞に

「この道がどこを通るのか知らない、知っているのはたどり着くところがあることだけ」
というフレーズがあります。


いつの間にか私が 私でないような 枯葉が風に舞うように小舟が漂うように
私がもう一度 私になるために 育ててくれた世界に別れを告げて旅立つ
信じたいために 疑い続ける 自由への長い旅をひとり 自由への長い旅を今日も

この道がどこを 通るのか知らない 知っているのは辿りつくところがあることだけ
そこがどこにあるのか そこで何があるのか わからないままひとりで別れを告げて旅立つ
信じたいために 疑い続ける 自由への長い旅をひとり 自由への長い旅を今日も


私は、1970年代の思潮を象徴する歌として、この歌を歌うことがあります。

歌いながら思うのは、当時は私も「たどり着くところがある」と思っていたこと、
そして今も、若者と他の元若者は、たどり着くところを求めているのだろうかということです。
 
たどり着くところとは、目標や理想であったり、因果の「果」であったりします。
 
立派な理想や目標を抱いていて努力しても、実際は、自分の思ってもいない「果」がやってきたりします。理不尽、不条理と思われることも沢山あります。
 
立派で正当な理想や目標を巡って、他者との争いになったりします。
 
その理想や目標の為、自分自身や他の人を、目標達成の為の道具や手段にしてしまったり、今このときを犠牲にしたりします。いわゆる「疎外」です。
 
ほんの些細な、小さな「予定」であれ、それは時に、人を苦しめます。
 
人生の果てにたどり着くところとして、多くの人は「死」をイメージしたりします。
 
その反動?として、いつか天国や極楽にたどり着くのだ、あるいは復活するのだと思える確証を欲しがったりします。 
死を忘れさせてくれるもの、隠蔽してくれるものを求めたりします。
 
私は
それらとて、「育ててくれた世界」の産物だとおもうのです。
いつかたどり着くのではなく、今既にたどり着いている、
それでいて今ここはとどまることなくカオスの縁を流れ続け、始まり続けている と。


「どうかこの杯をわたしに差さないでください。しかし、私の願いではなく、お心がなればよいのです。」

自由(へ)の長い旅を今日も
しばしの間立ち止まり、自分の呼吸を感じたり、
野辺の花を観つめたり、訳などないまま「空」を見上げること
隣人に語りかけ、貧しきままで寄り添うことをお勧めします。