人生と瞑想とマッサージとお絵かきとハーネシング

全ての出来事は、一回性の出来事です。
と同時に、よく似た出来事が繰り返し起こったりします。
 
よく似たことの繰り返しを、冗長性といったりしますが、それをさらに抽象して、法則性と言ったりします。

 何らかの法則性を仮定することによって、次に起こることを予測し、より適切な対応が持てるだろうと私たちは期待します。
 
 その為に、出来事の一回一回をより丁寧に観察しようとします。
 記憶し、差異を見出そうとすると同時に、冗長性を見出そうとします。
 
 違いを見いだせないと、冗長性・法則性も見いだせません。
 より細かく分化していくと同時に、全体との関係を見出そうとします。
 
 指先であるものを感じ、見分けること、(マッサージ)
 目で見て、ある物事を感じ見分けること、(お絵かき)
 その過程を感じ、見分けること(メタ見分け)をすると、(瞑想)
生きていること自体が、生命が存在すること自体が、
味わい深いものとなり、とても不思議で微妙です
 
人間が行っていた、その作業を、機械に肩代わりしてもらう過程の中で
私達は敏感さを失い、不思議さ、微妙さを感じる感覚を失っていったのかもしれません。

 私達自身が、機械のようになってしまっているのに、
お互いにまるで機械と機械が接するように接してしまっているのに
その自覚を失ってしまったようにおもいます。


 マルコによる福音書 第12章
  イエスは、賽銭箱に向かって坐り、群集がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。 多くの金持ちは、沢山の金を投げ入れていた。 ところが、ひとりの貧しい寡婦がきて、レプタ銅貨を二つ入れた。 それは一コドラントに当る。 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しい寡婦は、賽銭箱に投げ入れている人達の中で、誰よりも沢山入れたのだ。 みんなの者は有り余る中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中からあらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

 金銭に限らず、捧げることは、実は誰でもできることなのに、いつしかその量を問題にしてしまい機械のようになってしまった自分がいます。