弁別の基準 「違いを生み出す違い」

 日常生活の何でもないような出来事に対して、今一度立ち止まって観察してみると、分かったつもりでいたことが、分からなくなってきます。

 発達するとか上達するという言葉を別の表現をすれば
 ひとつには「違いが分かる」ようになることと思います。
 
 違いが分かれば、その違いに基づいて、名前をつけます。
 
 例えば、四足の動物に対して、どの動物にも「ワンワン」と言っていた幼児が、
猫と他の動物の違いが分かるようになると、「ニャンニャン」という名前を付けるように。

 ところで、
「ことばを獲得する」とは、そのことばで著わそうとしている意味・本質を知ることでしょうか、そのことばの世間での使い方を知ることでしょうか?ことばの恣意性を知ることでしょうか?

 ことばの発達とは、単にボキャブラリーが増えていくことではなく、ことばの恣意性に目覚めていくこと、言葉と言葉の境界をより微細にすることだけでなく、その境界を固定したものと捉えなくなること、「違いを生み出す違い」が分かることではないでしょうか。

弁別と般化は別々のことではなく、弁別は同時に般化であり、般化は同時に弁別ではないでしょうか?

例えば、(<「『A』」>) (<「 B 」>) (< C >) (  D  )
という文字が並んでいて、
『』を基準に弁別すれは A とBCD に分けられます。
「」を基準に弁別すれば ABとBC に分けられます。
<>を基準に弁別すれば ABCとD に分けられます。
()を基準に弁別すれば ABCD と    に分けられます。

 具体的な例でいえば、「障害者」と「健常者」との境界線を、私達は、何に基づいて引いているのでしょう。

 スピリチュアル熊野