みつぐ 貢ぐ 身継ぐ 見継ぐ

みつぐ 貢ぐ 身継ぐ 見継ぐ
 
 人間であれ、動物であれ、何かを相手に
 貢ぐ、贈る、プレゼントすることで
 関係を結び、維持しようとする行動が
 観察されるようです
 
 「貢ぐ」という言葉は、「身継ぐ」
 つまり、「この身を、神や共同体や全体と繋ぐ」ということば
 に由来するのだという説があります
 
 このことをもとに、色々な物語につなぐことができます。
 
 私は、貢ぐということばから
 「共同体に所属したい、一体化したい」という思いと
 「生きたい」という思いと、どっちが高次な目標なのかということを
 改めて考えてみたいと思いました。
 
 人は、生きたいがために、何らかの共同体に所属しようとします
 しかし、時に人は、所属するために、自らの命を捧げたりします。
 
 「私が」、ではなく、
「いのちそのものが」生きようとする力は強大だと私は感じています。
 
 あれこれ考える以前に、命は生きようとします。
 
 と同時に、あれこれ考えている間にも、この身は、
老いていき、やがて旅立ちます
 
 また、人は一人では生きていけない存在です。
 
 そもそも、世界から分離した統一的な存在(わたし)を前提としたり
 目標を設定したり、その目標に階層を設定したりすること自体が、
一つの仮定や錯覚なのかもしれません。
 
客観的にみれば、私達のからだは、
必ず老化していくことが観察されますが
「私は、いつか死ぬ」という文章や認識は、一つの錯覚かもしれません。
「私はいつか死ぬ」という文章を作ったり、読んだりしている今この時
 そして旅立つ瞬間も、その人は「生きている」のですから。
 
 いえ、生きている、ということも、一つの概念なのかもしれません
 
かつて、定置網の漁師をしていた頃
トウヤクとこの地方では呼んでいる長さ1メートルくらいの魚がありました
網がだんだん絞られていき、多くの魚が逃げまどい、混乱している中で
その魚は、最期まで小魚を追いかけているのです
かつては、自分の死の間際までえさを追い求める獰猛な
あほな魚と思ったりしたのですが
今では、生を全うしようとする魚のように思えたりします
どちらも、私の創った物語・錯覚でしょうが
 
 私達は、何らかの働きかけをして、
 自分を変え、他者を変え、環境を変えようとしています
 
 その働き掛けの一つが、コミュニケーションです
 
 そこには目標があります
 
 達成可能な目標を私は抱いているのでしょうか
 達成のための方法は適切なのでしょうか
 ひょっとして、あらゆる目標が錯覚なのかもしれません
 
 そもそも錯覚した目標をもち、適切でない方法で
 その元々錯覚である目標を達成しようとしているのかもしれません
 
 一体であるというのも錯覚で
 一体でないというのも錯覚で
 一体であり、かつ一体でないというのも錯覚で
 その錯覚の中、「身継ぐ」道を探し求めているように思います