易と不易

易と不易
 
 「永遠」とか「完成」という言葉に対しては、多くの人が肯定的なイメージを抱くのではないでしょうか? 「永遠の愛を誓う」とか「人格の完成」という表現があります。
 
 そういう言葉を辿っていけば、「安定」「不動」とか「完全」も肯定の側の言葉でしょう。「生活の安定」「不動の地位」「完全、完ぺきな演技」という表現があります。
 
 そういった流れをさらに進めば「不変」は「不変の真理」に繋がり、余り日常では使われない「不易」という言葉も「永遠」「不変」という言葉と同類のものとして肯定的に受け止められると思います。
 
 ところで、私達の中に、「永遠」「完成」「完全」「安定」「不変」「不動」「不易」といった言葉に肯定的なイメージを抱き、それを求める傾向があるとして、実際の世界、自然界に不動不変の「完成」「完全」があるのでしょうか? 完全な理想社会、完全な家庭、完全な悟り、完全な健康など、ありえるのでしょうか。あったのでしょうか?
 
 
 東西を問わず、古来より、世界の有様を、二つの要素に分けて、その関係の中に世界が成り立っているとする見方があります。西洋風にいえば二元論となりますが、「易」もその表現のうちの一つでしょう。
 
 ただ、二元論といってもひとくくりにはできません。一元論的二元論(二元論的一元論)もあれば要素論的二元論、全体論的二元論があります。例えば「陰」と「陽」という言葉を使っていても、陰と陽は独立した存在と捉える人もいれば、陰陽は相補相対であり、陰あっての陽、陽あっての陰と捉える人もいます。
 
 要素論からいえば、「完成」と「未完成」は別です。「安定」と「不安定」はべつです。「永遠」と「刹那」、「過程」と「到達点」、「手段」と「目的」はべつです。「肉体・身体」と「精神・心」、「陰」と「陽」、「白」と「黒」「一体化」と「差異化」、「論理の言葉」と「詩情の言葉」はべつです。
 
 しかし、私が今イメージしている「易」は、「未完成という完成」「不安定(流動的)な安定」「俗中の聖」「一瞬一瞬が目的であるような手段」「創発」として動きのある「易」です。桜沢如一氏は、「分極性一元論」と表現されています。
 
 十代の時、桜沢如一氏の著作を知り、読んでショックを受けました。そして約30年の遍歴を経て、ブーバーの「我−それ」「我−汝」を知り、また「無双原理・易」を読み直しています。