上達へのひらめき からだの柔らかさ

上達へのひらめき からだの柔らかさの意味を捉えなおす
 
 最近、フロアバレエレッスンのストレッチを、自分なりにアレンジして毎朝1時間くらい続けている。
 日中も、その感覚をもとに、からだの動きを通じての自己変容について考え続けている。
 
 そうしていて、思いついたことがある。
 
 「上達は、あらかじめ組み込まれている反射や本能的な動きを制御することによってなされる。」という以前どこかで読んだ言葉を思い出した。
 
 何で読んだのだったろうか、キネステティクだったろうか、フェルデンクライスだったろうか、野口体操だったろうか? からだを動かしながら確かめている。
 
 「からだの動く範囲しか、イメージは広がらない。イメージの広がる範囲しかからだは動かない」と言ったのは野口三千三先生だと思う。ではイメージとは何か? 
 
 イメージという言葉の捉え方によって、野口先生の言っている意味の捉え方も違ってくる。イメージを想像と訳するだけでは、足りないように思う。イメージは認知でもあると思う。
 
 フェルデンクライスは、「フェルデンクライス身体訓練法」の中で、こう述べている。
「個人の行動力学 われわれはだれしも、それぞれちがったやりかたで話したり、動いたり、考えたり、感じたりするが、いずれも歳月をかけてつくり上げてきた自分自身についてのイメージに従っている。(18頁)」

 自分自身についてのイメージの中に、自分のからだのイメージも含まれるだろう。
 
 ではどうやってイメージを広げたり、変えたりするのか?
 
 具体的な部分について知る、部分について具体的に知る、必要があると思う。

 例えば、足を開脚する時、ただ「広がる」というイメージや願望だけでは広がらないだろう。股関節が外旋しているのかいないのか、その差異が分からないと広がらない。
 
 又、開脚・外転の始まりにおいては、内転筋を働かないようにしておき、ある角度からは外旋し、更にある角度からは内転筋のうちのある内転筋を働かす、といったことが必要になるだろう。ある内転筋は緩め、別の内転筋は緊張させるということの差異が分かること必要になってくる。 そこで、反射やあらかじめ組み込まれた筋緊張、あるいはすでに学んでしまって固定した筋緊張に対して、制御が必要になったりする。
 
 余談になるが、すでに組み込まれた生体反応、反射や本能について、専門家内では厳密に決めてあっても、世間では曖昧だったりする。
 
 例えば、怒りとか恐れについて、それはあらかじめ組み込まれた感情であるとする見方と、後から学習されたものであるとする見方がある。
 
 どちらの見方をするにしても、制御するということで一致したりするが、方法や可能性についての考え方が違ってきたりするだろう。
 
 ともかく、自分を知り、制御する必要があろう。

 自分を知ろうとする時、自分の動きを分節する必要が生まれる。
 
文節に関して、岡本浩一著「上達の法則」PHP新書にこう書かれている。

「『小さくチャンキング(分節)』する時は、より小さく、そして大きくチャンキングするときには、より大きくチャンキングするのが上級者の特徴だ(76頁)」
 
ここ分節と俯瞰に、陰陽二元論(的一元論)を感じる。
 
ま、ともかく丁寧に差異を見出しながら動くこと
同時に、大きな生命の流れを感じること

大きな流れとは、からだを動かしつつ第一次世界大戦の中で手紙を書きつづったローザ・ルクセンブルクに思いを寄せるレベルでもあり
更に、嫌気性細菌と好気性細菌が分かれていったことに思いを寄せるレベルでもある。