神の存在と言語文法
「神は存在するのか?」という問いかけがあります。一人の人間が、自分自身に問いかけることもあれば、他の人に問いかけることもあります。あるいは議論になったりします。
しかし、この「神は存在するか?」という問いかけは、すでにあるものの見方の枠に嵌まっています。ある土俵の上に立っているといってもいいでしょう。つまり、この問いかけは、「存在する」か「存在しない」という答えを前提としています。
むろん、「存在するわけではない。存在しないわけではない。存在しかつ存在しないわけではない。存在するわけではなく、かつ存在しないわけでもない。空なのだ。」という人がいるかもしれません。
あるいは、「存在するとしてもあなたは苦しむであろう、存在しないしてもあなたは苦しむであろう。あなたのその苦しみはどこからきているのか?」と問い直されるかも知れません。
いずれにしても、日本語の文法に従って考えています。
ところがサンスクリット語では、日本語と違った文法で存在を考えます。
ある基体Yダルミンdharmin有法に、ある属性Xダルマdhama法が存すると考えます。
具体的には、日本語では、「私はお腹がすいている」と表現するところを、サンスクリットやシンハラ語では「私に<おなかすいた性>がある」と表現します。
そして、属性の存在は誰もが認めることですが、基体が存在すると認める立場と認めない立場があり、更に基体と属性の間に明確な区別があるかどうかについて、あるとする立場とないとする立場があります。
基体が存在しないし、属性と基体とには明確な区別が無いと考えるのが、仏教であり、基体は存在するが、属性と基体とには明確な区別が無いと考えるのがバラモン正統派の内のヴェーダーンダ学派、基体が存在するし、属性とその基体には明確な区別があると考えるのが、バラモン正統派の内のニヤーヤ学派等です。詳しくは、立川武蔵著 「空の思想史」講談社学術文庫を読んでみてください。
ともかく、具体的な属性については、基体があるという人もない人も、基体と属性との間に明確な区別があるという人もない人も認める訳です。
そこで、私には、属性として、「仮構性に基づいた神性」が「ある」のです。
「光を帯びて、白い髭を生やしている男性性」といったものは私には観察できません。
「我−それ性」「我−汝性」どちらも観察することができ、「我−それ性」だと「苦しい性」が伴い、「我−汝性」だと「安らぎ性」が伴うことも観察できます。