人生天授説

仏教風に表現するならば、私は今、「六道輪廻」の真っただ中にいます。
「六道」とは、迷いのない<浄土>に対して、「地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人間道・天道」の<迷いの世界>のことを言います。六道輪廻とは、「自分の業により、六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷い続けること。」です。 輪廻の真っただ中にいる、といっても、「死後極楽へ行く」とか「地獄へ落ちる」とかを信じているという意味ではありません。生きているたった今、この現世で、六道を輪廻していると思っています。
 
「Ocean:An Introduction to Jodo-Shinshu Buddhism in America」の著者
ケネス氏は、六道についてこう語られています。
 
「阿修羅は自分が正しいという正義感だけに生き争うのです。自己反省はなく、常に他を批判し責めるのです。畜生は自分勝手で、自分の力だけで生きていると思う恩知らずの生きもののことです。餓鬼は常にものを求めるが常に満たされない。永久に欲求不満な生きものを指すのです。」

 私はメタボ傾向にあり、連れ合いからも忠告されているにもかかわらず、甘いものが好きで、しばしばお茶と共に間食します。太ると分かっていても、止められません。それはまるで餓鬼のようです。その連れ合いと、我が子への対応や仕事の経営方針、治療方針を巡って対立します。それはまるで阿修羅のようです。世界的な不景気の中で、如何にして生き残るかと考え、ついつい人とのつながりを忘れそうになる時は、まるで畜生です。
 
 心理学の世界に、マズローの「自己実現理論欲求段階説理論」というものがあります。私の六道輪廻を心理学の言葉で表現すれば、この理論が近いかな、と思っています。
 
 Wikipedia(インターネット上の辞典)には
 マズローは、人間の基本的欲求を低次から      
1.生理的欲求(physiological need)
2.安全の欲求(safety need)
3.所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4.承認の欲求(esteem)
5.自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。このことから「階層説」とも呼ばれる。また、「生理的欲求」から「承認の欲求」までの4階層に動機付けられた欲求を「欠乏欲求」(deficiency needs)とする。生理的欲求を除き、これらの欲求が満たされないとき、人は不安や緊張を感じる。「自己実現の欲求」に動機付けられた欲求を「成長欲求」としている。
人間は満たされない欲求があると、それを充足しようと行動(欲求満足化行動)する。その上で、欲求には優先度があり、低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へと段階的に移行する。例えば、ある人が高次の欲求の段階にいたとしても、例えば病気になるなどして低次の欲求が満たされなくなると、一時的に段階を降りてその欲求の回復に向かい、その欲求が満たされると、再び元に居た欲求の段階に戻る。このように、段階は一方通行ではなく、双方向に行き来するものである。また、最高次の自己実現欲求のみ、一度充足したとしてもより強く充足させようと志向し、行動するとした。
 と説明されています。
 
 ただ私の六道輪廻・階層理論は、今まで述べてきたように、まだらに入り組んでいます。
ある時あるところは餓鬼、同時にあるところは阿修羅であり、人間であるという風にです。
夕陽や草花の複雑な形容、蜘蛛の巣の見事さに感動した後、しばらくすれば、地域通貨について語りながら同時に、メタボを気にしつつケーキを貪り食べているといった状況です。

 六道輪廻の阿修羅道と欠乏欲求という言葉から、私はある一人の人物を思い浮かべます。その人は、英国の哲学者トマス・ホップズです。ホップズは、人間界は「万人の万人に対する闘争」状態にあるといいます。同じくWikipedia からの引用です。

ホッブズは人間の自然状態を闘争状態にあると規定する。彼はまず生物一般の生命活動の根元を自己保存の本能とする。そのうえで人間固有のものとして将来を予見する理性を措定する。理性はその予見的な性格から、現在の自己保存を未来の自己保存の予見から導く。これは現在ある食料などの資源に対する無限の欲望という形になる。なぜなら、人間以外の動物は自己保存の予見ができないから、生命の危険がおびやかされたときだけ自己保存を考える。ところが人間は未来の自己保存について予見できるから、つねに自己保存のために他者より優位に立とうとする。この優位は相対的なものであるから、際限がなく、これを求めることはすなわち無限の欲望である。しかし自然世界の資源は有限であるため、無限の欲望は満たされることがない。人はそれを理性により予見しているから、限られた資源を未来の自己保存のためにつねに争うことになる。またこの争いに実力での決着はつかない。なぜならホッブズにおいては個人の実力差は他人を服従させることが出来るほど決定的ではないからである。これがホッブズのいう<万人は万人に対して狼>、<万人の万人に対する闘争>である。」

 私は、私の中にこの「阿修羅・畜生道」<万人の万人に対する闘争>を感じています。
 
同じく、仏教に「意馬心猿」という言葉があり、阿修羅、畜生、餓鬼のときは、考えることや行動があちこち錯綜し、自分自身が見えなくなってしまいがちです。
 
 そんな時、考えを整理する目的で、ドイツの社会学者ゲーレンの言葉を
出発点にします。ゲーレンは言います。

「人間は行為する生物である。」「行為とは予見と計画に基づいて現実を
変化させることである。(人間学の探求)」
「予見や計画」「現実を変化させる」ということについては、先ほどのホップズの言葉やアドラー心理学・個人心理学の見方で補足することができる、と私は思っています。

個人心理学は、アルフレート・アドラーによって創始された心理学理論で、アドラー心理学、目的分析学とも呼ばれています。
人間の行動の根源を「権力への意志」であるとし、権力への意志が満たされないことで発生する劣等感が人間の様々な問題を引き起こすといいます。(古典のアドラー心理学

「行動の原因ではなく目的を分析する(過去の体験よりも未来への目的の置き方を重視する)。人間を全体として捉え、理性と感情、意識と無意識を対立するものとしない。人間を社会的存在として捉え、対人関係の分析に重きを置く。客観的事実そのものより、客観的事実に対する主観的意味づけを重視する。などの理論的特徴がある。」
とこれも、Wikipediaにあります。
 
 「六道輪廻、欲求階層説、人間学、個人心理学」いずれにしても、私には生存・安全・所属・承認の欲求があり、自己実現・権力への意志・自己超越の思いがあります。

 予見と計画、予測をもって、現実を変えようとするのですが、自分の思う通りにならなくて、苦しみます。ケーキを食べる前、太ることは重々承知しています。でもケーキをいただく時間は楽しいし、おいしいです。そして行為の結果はやってきます。

 仏教には、これまた「四苦八苦」という言葉があります。もの心ついて以来、私は「死ぬということ」を考え続けてきました。20歳代には、脱サラして海外へ放浪旅にでかけ、その途中で赤痢になって死にかけ、50歳代では、失血で倒れる寸前にもなりました。
 
 一般的な人付き合いも、社交辞令も、社会参加も、実は共に苦手でした。青年期には、「そういった性格の原因は、争いの絶えなかった両親とその家庭環境のせいではないか、この過ぎ去った現実は変えようがないのでは」と思っていた時期もありました。
 
 今なお六道輪廻の真っただ中なのですが、借金もなく仕事を続けることができ、子供3人も20歳を越えました。これといった持病もなく、好きな勉強と研究ができていて幸せです。(子供達は経済的自立をしてなくて、私達の老後の蓄えは、予測すれば不十分ですが。)

 そのような状況の中で、それなりに私に安心(あんじん)をもたらしていてくれる先達の智慧があり、それを伝えようと思い、筆をとりました(キーボードを叩いています)。
 
思いつきで、「人生天授説」という題にしました。「子供を授かる」という表現がありますが、子供だけでなく、つれあいも、人生そのものも、天(宇宙全体)から授かったものと思うからです。これから先、自分が余り望んでいない出来事が起こる可能性があります。
 起こった最初はきっと、うろたえるでしょうが、しばらく呼吸を見つめた後は、それは天から授かった出来事として受け入れ、課題を果たしていくだろうと思っています。
< 予見について >

 先ほどゲーレンは、「人間は、予見と計画をもって、現実を変えようとする」と述べていると紹介しましたが、私達はそれぞれが実に様々な予見をもって人生に臨み、その予見の内容を疑っていません。でも、この予見が、私たちを苦しめていたりします。
 
 私の中で、私を苦しめていた予見の一つが、「要素論」という予見です。
要素論は、約400年前のデカルトに始まるといわれています。もちろんそれ以前にも要素論はありましたが、現代の常識的な要素論は、400年の歴史があるということです。いきなり、「現代の常識的な要素論」といわれても、あなたは納得されないかもしれません。
なので、要素論について述べようと思います。

私達人間は、歴史が始まって以来、「世界の究極的存在とは何か」と考え続けてきたと思います。その営みは、「哲学」と言われました。それは、「生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことか」「人は死んだらどうなるのか?」という疑問と同じことを問うていると思います。

 やはりWikipediaの還元主義のページに次のように記載されています。

デカルトは、世界を機械に譬え、世界は時計仕掛けのようであり、部品をひとつひとつ個別に研究した上で、最後に全体を大きな構図で見れば機械が理解できるように、世界も分かるだろう、という主旨のことを述べた。」

このように、「世界は、それ以上に分けようのない究極的実体(要素)の集まりである」という見方が、要素論です。もっと具体的にいえば、「皮膚の内側が私である」という見方です。
 私達は、しばしば、「心・魂はどこにあるのか」とか、「神はどこにあるのか」という議論をします。「神などいない」「神は死んだ」「生きているうちが花なんだ」「死んだらおしまい」という人もいれば、「神は存在する」という人もいます。「問うてはならない」「答えられない」という人もいます。「神は存在する」と言いつつ、死を恐れ、人間関係に悩む人がいます。
 心、魂、神、仏、気、物質、これらを独立した部分と捉え、そういった独立した部分が集まって世界が成り立っている、と考えるのが要素論です。
 
 デカルトが言うように、一見この世界は、究極的実体(要素)の集まりのように見えます。しかし、それは錯覚であると思っています。具体的な例が、「からだ」です。私達のからだは、頭、胴体、手足、あるいは様々な臓器が集まってできているように見えます。右手は左手ではありません。脳は皮膚ではありません。では別々かというと、別々ではありません。どこで錯覚が始まったかといえば、右手や脳という言葉は、場所や状態を表している言葉であるのに、ものそのものを表現していると思ってしまったからだと思います。
 私のこのからだ、肉体という言葉も、ものそのものを表しているのではなく、この宇宙のある部分の場所、状態を表現している言葉だと思います。この宇宙のある場所は、本来全体から独立して存在しているのではなくて、人間が言葉で切り分けていて、その言葉を使っているうちに、独立したものと錯覚してしまうのだと、私は捉えています。
 例えば「机」という言葉も、ものそのものを表しているのではなく、状態を表しているのだと思っています。
 「この私」も、この宇宙の中に、独立した要素として存在しているのではなく、この宇宙が「この私」として、現象・縁生しているとおもっています。
 
 私がこのような見方をするようになったのは、一つは、瞑想実践からです。一つは野口体操に出会ったからです。さらに言えば、桜沢如一の無双原理やアドラー心理学を知ったこと、言語学を知ったこと、グレゴリー・ベイトソンの「精神の生態学」を知ったことなどがあげられます。

 道元禅師は言います。
 「仏道を習うというは、自己を習う也。自己を習うといふは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。」
仏道を習うということは「自分」を知ることである。「自分」を知るということは、予見や思い込みを自覚することである。自覚したうえで離れることである。思い込みを離れるとは、「自分」と出会うあらゆるものごとによってこそ「自分」が活かされているのだということへの気づきである。それが判るということは、自分も万物も本来「実体」ではないということへの気づきである。「悟る」とはもともとのありように気がつくことであり、ただ、今まではそれに気がつかなかっただけのこと。気がついたからといって、その在り様の何が変わったわけではなく、これからもその在り様が続くのである。)

南無阿弥陀仏という名号があります
 南無は帰依するということです。阿弥陀の原語は、Amita です。Aは、否定の接頭語で、無・不を意味します。mitaは、量るという意味です。ですのでAmitaとは、思い量ることのできない世界、つまり部分ではなく、縁でつながった世界全体のことを言います。
 
 ゲーレンが言いました。「人間は、予見と計画をもって、現実を変えようとする。」世界から自分が分離独立していると捉え、その分離独立した自分だけの為に、現実を変えようとしても、縁で繋がった世界は、自分の都合のよいように変わったりしません。
 苦しい時というのは、自分の都合だけで、現実を変えようとしている時だと思います。そんなときに、南無阿弥陀仏と唱えると、自分勝手を自覚することができたりします。
 
 今から750年ほど昔、ある信者さんが、一遍上人に問いました。「南無阿弥陀仏の念仏で、往生できることを信じていますが、いざ臨終となれば、念仏できないのではないかと不安です。」一遍上人は答えました。「将来の臨終のときのことを今言っても仕方ない。しかし、今ここで念仏できないものが、どうして臨終に念仏できようか」             
 
日々日常の食事は、一つには、生理的欲求を満たしている行為かもしれませんが、食事の度に、呼吸を整え、姿勢をただし、手を合わせ、頂きますとのべることは、日々の念仏であると思っています。
(甘いものを間食している時もそうです、と少し言い訳)
 
 また更に、一遍上人は言います。「苦を厭うというは、苦楽共に厭捨するなり。」私達は、幸福でありたいと願い、人それぞれに幸福の条件をつくっています。この条件をつくること自体が、苦しみのもとであるように思います。しかし、苦楽共に厭捨するとは、見返りで楽を捨てたり、否定することではないとおもいます。楽は、恩寵として訪れます。
 
 インドにはシバという神様がいます。シバは創造の神様です。一生懸命、精魂こめて美しい世界をつくります。シバはまた同時に、破壊の神様です。ある日そんなに心をこめて作った世界を壊し始めます。その様子を見て、他の神々が尋ねます。せっかく創ったのに、どうして破壊してしまうのか。シバは踊りの神様でもあります。シバは他の神々の問いに言葉では答えず、踊り始めます。
 私達が生きていくうえでは、理不尽と思われるような不条理や破壊的な出来事がしばしば訪れます。そんなとき、虚しさに襲われます。だからこそ、あなた自身が、天から授かった人生の創造者なのだと思っています。呼吸を変えることで、世界が変わります。
 
< 予見の自覚について >

 私達は、私達自身の様々な予見をどうやって自覚できるでしょうか。一つに、自分で当然と思って行為していることを、改めて言葉にし、文章・文脈化してみることがあげられます。日記よりも、対話やカウンセリングがお勧めです。もう一つは、自分の姿勢を見つめることです。日常の個々の動作における「姿勢」は、その人の予見を象徴しています。その際も、自覚の経験のある「他者」を通して観ることが、より有効です。例えば、野口体操、アレクサンダーテクニーク、フェルデンクライスメソッド、オイリュトミー、禅、太極拳等がお勧めです。そして、あらゆる趣味、仕事、スポーツも、自己を習い、自己を忘れることに通じています。

< 苦しみを生む別の常識的予見について >

 現在、世界中に多くの苦しみを生み出している「常識的な予見」があります。それは「お金には、プラスの利子がつくものだ。」という予見です。利子がつくがゆえに、様々な経済的な矛盾と闘争が生まれています。その予見に対して、「劣化する通貨」という別の予見を示したのが、シルビオ・ゲゼルです。これについては、また別の機会に語りましょう。