水といのちと全体論

今から30数年前、私が高校生だった頃、同級生の中に、「梅干しは、赤いまま木になっている」と思っている人がいて、大笑いしたことがある。今、都会に住んでいる小学生に梅干しはどうやって作るかを質問したら、どのような答えが返ってくるだろうか。


梅干しを毎日食べている人は少ないだろうが、水を一日も飲まない人はいない。大人の場合、からだの約60%は水だといわれている。このからだを維持していくために、一日2〜3リットルの水が必要といわれている。


では、私たちが毎日飲む水が、どういう過程を経て、飲み水となって、私達のからだになるのか、知っているのだろうか?蛇口をひねると出てくる水、ペットボトルや缶に入っている飲料の水は、どこからどういう過程を経て、あなたのからだに至ったのだろう。


蛇口をひねって出てくる水が、どこの浄水場や、配水池を経てくるか知っていますか?どの川のどこに取水口があるか知っていますか?その川はどこの町や村を経て、どの山どの谷に至るか、知っていますか?


改めて考えたとき、かつて梅干しが赤いまま木になっていると思っていた同級生となんら変らないように思う。
自然と私たち人間は一体であると説く宗教家がいたりするが、宗教家が言うまでもなく、毎日飲む水や、食べる食べ物や、呼吸する大気を通して、自然と人間の一体感を再認識することができる。


とはいえ、私達はそのことを忘れがちで、ときには命の源である、山や川や海を汚してしまう。
インドの北部、ラダック地方は標高3000メートル以上の高地にある。ヒマラヤの雪解け水を利用し、水路を縦横にめぐらし、水を敬い、水を大切にし自給自足の農耕生活を長年続けてきた。


インド政府がこの地方に、食料の援助を始めたことによって、ラダック地方の文化が壊れ始めた。水を敬うことを忘れ、水路にゴミを捨てる人が出てきているという。
いわゆる近代化により、蛇口をひねると家の中で水が得られるようになったが、同時に水といのち、私達と自然環境の一体性は、忘れ去られていったように思う。


近代化が如何に進もうと、水はやはり命の源で、山川故郷の恵みである。水を飲むことは、そのまま瞑想になる。休日には、浄水場や取水口や水源を訪ねてみよう。命の繋がりを感じながら、水を頂くことを心がけたい。