小さな瞳の奥に満天の星の光が注がれている

k1s2012-01-24

今目の前にある自動車と人間の身体を比べてみたとき、どちらも独自の働きをする様々な「部品」「部分」から成り立っているように見える。自動車のキャブレターが壊れたとき、その部分を取り外して新しい部品と取り換えれば、また動くように、人間の身体においても、色々な臓器で臓器移植ができるようになった。

 こういった今目の前にある姿から、人間が精密な機械みたいだと思うのは、あり得る感覚だと思う。共通項を見いだそうとすれば、共通項が見つかる。
 
 だけど、私たち人間の身体は、一個の卵子精子が出会って、融合して、細胞分裂を繰り返して、今の姿になった。自動車は、そうではない。
 
 一個の卵子から、細胞分裂を繰り返してやがて約30〜60兆個の細胞になるのだけど、どの時点で、細胞のどの部分がどの臓器になると決まるのだろう? ともかく、隣り合わせの細胞との関係で、ある細胞は親指の細胞になり、ある細胞は心臓の細胞になる。
 
 人間個人とその属する社会の関係を見たときにも、人間個人を自動車の部品のように見るのではなく、からだの一つの細胞のように見ることもできる。
 
 人間は、生まれたときから一生変わらない類型や特性があるのではなく、隣り合わせの関係の中で、おおよその姿があらわれてくるのだと。
 そしてからだの細胞よりも、もっと融通性があるのだと。
 
 そしてまた、人間社会を地球全体をからだに見立て、そのからだの一つの細胞のように見ることもできる。
 
 人間はやがて必ず老いて死ぬわけだけど、ただ死ぬのではない。からだ全体がただ死ぬだけなら一代限りの命でそこで終わりだが、生殖細胞が別の生殖細胞と出会うことで、人間の命は続いて生きた。幾度かあった氷河期の中でも。
 
 生殖細胞によって次々生命は受け継がれていく。そして生殖細胞だけで受け継がれていくわけではない。やはり生殖細胞を取り巻く環境や、他のさまざまな生物、人間の場合「言葉」や「関係」によって受け継がれていく。
 
 いのちのなんとふしぎなこと。
 
 人間一人一人は、機械の部品に似ているところがあるけれど、部品と同じではない。
 でも、まるで部品のように扱われ、そして自分自身でそのように思い込んでしまっているところもあったりする。
 
 小さな瞳の奥に、満天の星の光が注がれている。小さな細胞の一つ一つに、宇宙の歴史と夢が宿っている。そう思い、気を付けて暮らしていると、子育てや教育や自分育ての姿も、様々な関係の持ち方も変わっていくことだろう。