苦の滅の為の 「活行動」の変容

「行動」という言葉だと、目に見えるからだの動きをイメージしてしまいがちなので
からだの動き、コミュニケーション、意識的無意識的な思考等をすべて含めて
「活行動」という言葉を今仮に造語しようと思っています
 
私達はある場面で、ある活行動を、意識的無意識的に選択し、実践します
そこにはどのような構造があるのでしょう?
生理学、生物学、心理学などの学問で、学習理論や性格理論といったもので説明してきました
 
ある活行動を選択して、不適切、不利益であれば、他の活行動を選択すればよい
と単純には思いますが
実際の活行動においては、「わかっちゃいるけどやめられない」ことがあったりします
 
そのことについても、さまざまな説明、仮説、理論があります
 
今選んでいる活行動とは別の活行動を選択するために
私達は、親兄弟、友達、先輩、上司、先生、カウンセラーやセラピストに相談したりします
 
誰に、どのように相談するかもまた、選ばれた選択肢です
 
別の選択肢、別の方法を選ぶことによって解決する場合もあります
選択肢にもレベル、論理階型があります
ある選択肢が集まって、選択肢群(クラス)になります
別の選択肢を選ぶことでは解決できず、
選択肢群そのものを選びなおす必要がある場合もあるでしょう
 
女の子にもてる為に、ベンツを手に入れようか、クルザーを手に入れようかと考え、選んだとして
ベンツやクルザーが好きな女の人にしか出会えないかもしれません
そういったもので誇示することで、嫌われるかもしれません
 
選択肢群(クラス)達はまた、メタクラス構造になっていると思います
 
例えば性欲
性欲一般を否定する人がいます もちろん全面肯定する人も居ます
性欲にいい性欲と、悪い性欲に分ける人がいます
昇華などということをいう人がいます
からだにのみ性欲があるという人もあり、こころにもあるというひとがいます
からだもこころも肯定したり、からだを肯定し、こころを否定し
からだを否定して、こころを肯定し、からだもこころも否定する人も居ます
色々な仮説があり
その色々は論理階型をなしています
論理階型を理解できない人も居ます
 
論理階型の一例として、例えば性欲ならば
性欲といったものが、あるわけではないし、ないわけでもない、という観方があります
 
少なくとも、論理階型を仮定、理解しないと、パラドックスに陥り、混乱することでしょう