インタープリターという言葉について  生命の文脈を読む

ここ数百年くらい、自然観察の方法は、
世界をなるべく沢山の要素に分け、その要素から得られた情報を総合するという方法が主流でした
 
肉眼よりも、顕微鏡、顕微鏡よりも電子顕微鏡で見るほうが、要素の数が増えます。
 
この方法は、要素還元論といわれました。
  
しかし、生命を観察することにおいて、その方法に対する疑問が生まれました。
分ける過程で、抜け落ちてしまうものことがあることと
余計なものが加わることが懸念されたのです
  
そこで、要素に分けて、観察するという方法は持続しつつも
同時に、全体は部分の総和以上であるという視点を持つことを、全体論的視点と言います
  
全体論的視点は又、世界をシステム的、階層的に観ます
  
「論理階型」という言葉は、ラッセルが造語したようですが、
今では、グレゴリー・ベイトソンから引用されることが多いです
  
胡瓜、南瓜、大根、葱などは、野菜というクラスのメンバーです
野菜は、野菜というクラスのメンバーにはなれません
 
「テーブルの上にりんごがある」というとき
「テーブルにあるもの」と「りんご」は、普通同じと思ってしまいますが
「テーブルの上にあるもの」が「りんごというクラスに属する」ということ
あるいは、「テーブルにあるもの」は、「りんごというクラスに属さないものではない」ことを
表現しています
  
これを「ものの名前は、名づけられたものとは違う」といいます。
 
メンバーはクラスを形成し、クラスが又メンバーとなり、メタクラスを形成します。
クラスが、自らのクラスのメンバーになれないことは、いうまでもありません。
 
細胞膜、細胞、葉っぱ、木、森はそれぞれ属するクラスが違います。
  
さて、インタープリターという言葉ですが
直訳すれば、翻訳者です
 
インタープリターは、何を翻訳するのでしょうか?
 
私たち日本人は、英語教育を長く受けながら、英語をしゃべることが出来る人は少ないと言われています
 
その原因として、勉強の仕方に問題があるといわれています。
 
私達が母国語を習得するとき、単語の意味を理解してから、その単語を使うのではなく
文脈の中で単語を使用しているといわれています
 
「マンマ」とか「ハナ」とか、幼児は最初単語を発しますが
それは単語を言っているのではなく、「単語文」であるといわれます
 
大人になってからでも、
「あほ!」あるいは「お前、あほやなあ」という文章は、
その前後の文脈で、意味がぜんぜん違ったものになります。
 
「単語」「文章」「文脈」はそれぞれ属する論理階型が違うのです。
 
文脈を離れて、単語の意味を辞書でどんなに詳しく調べても
文脈は見えてきません
 
グレゴリー・ベイトソンが言っているのですが
「生きる」「食べる」「話す」という単語だけを取り出して、その品詞を問えば
それを多くの人は「動詞」と分類するでしょうが
<「生きる」「食べる」「話す」は動詞です。>という文章の中では
「生きる」「食べる」「話す」という単語は、動詞として機能していません。
  
心身一如という言葉がありますが
「こころ」と「からだ」を同義語 こころ=からだ と捉えるのと
(こころ=からだという文脈の中での「こころ」)
「こころ」と「肉体」を同列の要素語 こころ+肉体=全体と捉えるのでは
(こころ+肉体=全体という文脈での「こころ」)
同じ「こころ」という言葉であっても、意味するところが違ってきます
 
日本人が英語をしゃべるのは苦手になりがちというのは
文脈よりも単語の意味にこだわり、単語の意味を寄せ集めたら文章の意味が判るという勉強の仕方をするからだといわれています
つまり、要素還元的な文章理解です
 
インタープリテーションをするときにおいても
単語を辞書で調べるようなインタープリテーションと
文章や文脈を読もうとするインタープリテーションがあると思います
 
人類というクラスにおいては、そのメンバーである国家や人間は
いわゆるお互いを拘束しあったり、競争しあったりしているかもしれません
 
しかし、人類というクラスをもっと大きなメタクラスのメンバーとしてみたとき
人類というクラスそのものは、大きなメタクラスから「生かされている」と見ることも可能です