人は救われうる

昨夜から今朝にかけての瞑想の中で浮かんだテーマは
「人は救われうる」です
 
「人は救われうる」ということをテーマに、他の人々と意見を交換すると、色々な意見が錯綜します。
 
修行する人だけが救われうるのか?
大衆はどうなるのか?
社会活動は認めないのか?
 
そういったことを議論する以前に
人とはどういう存在か?
救われるとはどういうことか?について、丁寧に考えることが必要です。
 
仏教に四苦八苦という言葉があります。
いわゆる、生老病死が四苦です
 
もし、たとえ、理想的な国家、理想的な家庭が実現したとしても
人は、この生老病死という実存的な苦しみと向き合わねばなりません
 
実存的な苦しみと向き合うことから出発するために
「人は救われうる」をテーマにしたいのです
 
逆に、理想的な国家や、理想的な家庭の中に居なくとも
人は救われうるのだ、ということを考えてみたいと思っています
 
聖典にこう書いてある
聖人がこう述べた
ということ以前に
自らに問いたい、自らと対話したい
「人は救われうるか」と
 
結論から言うと、人は救われうると私は信じています
私とは、ちょうど虹や風のように、縁から生まれ成り立っている「現象」
トートロジーになるが、救われるとは救われたと実感すること
 
春になって、野に出でて、雑草を踏みしめたときそう感じた
エゴも苦も、私が参加して作り出している「こと」
蓬は蓬で私のエゴや苦しみに関係なく、そこで新芽をふいていた
 
クラスの不動は、メンバーの絶え間ない動によって成り立って居たりします
 
それを文学的に表現すれば「求道すなわち・・・」となります