素人言語学

There is an apple on the table.
テーブルの上にリンゴが(一個)あります
 
と表現した時、「目の前にあるもの」=「リンゴ」と普通は思ってしまう
 
もう一個今まであったリンゴの右側に、リンゴを置く。
左側にあるのも「リンゴ」右側にあるのも「リンゴ」だが、
それらは同じ「リンゴ」か、違う「リンゴ」か?
 
左側が王林で、右側が紅玉だ、なんていう人がいるかもしれないが
もし王林が二個あるとしても
左の王林と、右の王林は同じ「王林」か、違う「王林」か?
 
そもそも、テーブルの上にリンゴが一個あります、という表現をしたときが混乱の元
テーブルの上に「リンゴ」と呼ばれるグループ・クラスに属するもの(メンバー)が、ありますとでも表現したいところ。
 
では、一個の王林がテーブルの上にあって
その王林と、三日前の王林は同じ王林か?

このようなどうでもよさそうなことを話題にしていることには、意図があります
 
リンゴや王林を「私」や「山田太郎」あるいは「山田花子の性格」に置き換えて考えてみたいのです
 
[私]や[性格]もまたクラスの名称であると、(おおよそ名称はクラスの名称でしょうが)捉えたいのです
 
クラスの中には、沢山のメンバーがあるということ
クラスは学級委員だけで成り立っているわけじゃないと捉えたいのです
 
クラスはまた何らかのクラス(メタクラス)のメンバーでもあると、捉えたいのです
テーブルの上にあるものたちは、「王林」クラスのメンバーです。
王林」は「リンゴ」クラスのメンバーです。

「私」と「山田太郎」と「山田花子」と「鈴木一郎」と「田中絹江」と集まっただけで、
5年3組のクラスができるわけではありません。
担任の岡田先生や、教室や、学校、地域社会や保護者がいて、成り立ちます。
 
 
紅玉は赤いです。
もし、世界のすべてが赤一色であったら、赤という名称はないでしょう
 
赤一色の世界に、赤でないものが現れて、赤と赤でない色の名称が生まれます
しかし、私が赤と赤でないものの差異を感じることができなかったら、
やっぱり世界は赤一色で、赤という名称は生まれません
 
鯖には、真鯖とゴマ鯖があります
ゴマ鯖という言葉を知らない人にとっては、、真鯖もゴマ鯖も鯖でしょう
 
右手は左手とは違います。手は胴体とは違います。
しかし、右手だけ、胴体だけの存在はありえません。
 
右手も胴体も、からだのメンバーです。
 
結局何を言いたいか
「私」は何かのメンバーであり、何者か達のクラスであるということ
 
具体的な応用としては
私の中に多数の信念、性格、行動パターンがメンバーとしてあって、
適材適所に使えるようになれば良いなと思うのです

ああすべてが流れていく 虹のように 風のように